身も心も擦り切れ、スランプに……
『いつもポケットにショパン』を発表した後も、『ハリウッド・ゲーム』(’81年)『いろはにこんぺいと』『東京のカサノバ』(’83年)と、次々にヒット作を生み出すふさこは、いつの間にか『別マ』を代表する漫画家として、読者から熱い支持を集める存在となる。
「『東京のカサノバ』では当時人気のあったカメラマンやバンドマンなど横文字職業の人たちがキラキラ輝いています。
時代はバブルの階段を駆け上っていく真っただ中。取材を兼ねて、私も漫画家仲間たちとディスコやカフェバーに出かけました。“シティ感覚100%のラブストーリー”と銘打たれたこの作品では夜遊びも仕事のうちでしたね」
ちなみに、そのころのふさこの仕事のサイクルは、ネームや下絵で1週間、原稿を描くのに1週間、そして、カラーページを仕上げるのに1週間だった。
連載なら30ページ、読み切りなら50ページの原稿を毎月、仕上げなくてはならない。
「私たちアシスタントは、お昼ごろから夜中の4時ごろで上がらせてもらいましたが、完璧主義者の先生は、その後も寝ないで細かい修正や次回の準備に追われていました。当時の先生は、力のすべてを漫画に注ぐ、まるで鶴の恩返しを見ているようでした」(前出・小塚さん)
こうした生活が、“売れっ子漫画家”の宿命とはいえ、無理を重ねるうちに、ふさこの心と身体が悲鳴を上げ始める。
「最初に変調を感じたのは、’79年『100Mのスナップ』という陸上競技を題材にしたスポーツ漫画に取り組んでいたとき。
描き上げた後いつもなら解放感に満ちあふれ、アシスタントさんたちと打ち上げに出かけるのですが、みんなで美味しいものを食べても全然、楽しくないんです。街の本屋で立ち読みをしながら、何が原因なのか悶々と考えていたことを覚えています」
その後、『いつもポケットにショパン』をはじめ心揺さぶる作品を描き続けていくうちに、ふさこの心はさらに蝕まれていった。
「うつの症状が完全に出たのは、『東京のカサノバ』を描いていたときでした。
ハードなスケジュールに加え、作品に力を注ぎ込みすぎて、もう擦り切れそうでした」
突然、真夜中に過呼吸に襲われ怖くなり、救急車をふさこ自身が呼んだこともあった。
「当時は、うつ病に関する知識もなく、編集者や友人の誰にも相談することもできず、不安を抱えたまま仕事をしていました。
その次の『A-Girl』(’84年)では、“あまり重たいものは描けない“と編集者に伝え、情緒不安定と自律神経失調症に苦しみながら描き続けました。よくあの状態で作品を描いたなと思います」
妹の知子さんは、当時の姉の様子について、
「編集者と食事したり、お酒を飲んでいても、姉の顔が時折、無表情になることがありました。笑うのが本当につらそうでした」
昼夜逆転の不規則な生活に加えて慢性的な睡眠不足。それでも感情を振り絞って作品作りに心血を注いでいたため、ふさこの精神は限界に達していたのである。
その後も『海の天辺』(’89年)、『チープスリル』(’90年)とヒット作を描き続けるふさこ。しかし’91年、ついに『チープスリル』の連載を中断せざるをえなくなった。
「手を上に上げることもできずに、気がつくと壁に寄りかかってボォーとしていました。お酒を飲んだり、お風呂に入ったりしてなるべく睡眠をとるように心がけました」
その苦しみは、『チープスリル』の連載を再開した後も、ふさこを時折、襲った。完全にうつ症状から解放されたのは、’94年に始まる『天然コケッコー』の連載の最中。
その間、ふさこは不安を抱えたままペンを握り続けたのである。