高校生で音楽誌の編集部を直撃!
通信制高校の3年に編入した後は、嫌な高校に行かなくてすむ解放感に満ちあふれていた。そんな黒沢の心を虜にしたのが、音楽の世界だ。
「時代は’70年代末期。ポストパンクとしてアートスクールに通う生徒がアート的なノリで音楽をやるニューウエーブが台頭して、毎日ワクワクしながらラジオの音楽番組にかじりついていました」
そんなニューウエーブの音楽を中心に紹介していた雑誌『ロックマガジン』の新宿区千駄ヶ谷にある編集部を訪ねたのもこのころだった。
「アポも取らずに編集部に遊びに行っても嫌がらずに相手をしてくれ当時、村上春樹さんが経営していたジャズ喫茶『ピーターキャット』でニューウエーブ系のアーティストがどういったアプローチで音楽作りをしているのか興味深い話を教えてもらいました」
忙しい編集部を訪ね、逆取材してしまう高校生がどこにいるのか。興味を持ったことにはトコトンのめり込む才能は、すでに片鱗(へんりん)を見せ始めていたのかもしれない。
しかも、
「話を聞いているうちに、今まで楽器を演奏したことのない自分でも、こういった音楽なら作れるのではないかと思うようになりました」
と話す。
1980年、新たな夢を胸に黒沢は通信制高校を卒業。1年浪人の末、早稲田大学文学部に合格した。
「大学に行けと言われたことはなかったのですが、高校中退で悲しませた両親の喜ぶ顔を見てホッとしました」
反抗期にも親との絆は大切にしてきた黒沢。同級生より2年遅れて大学に入学すると、音楽活動に本腰を入れるために時給の高い百貨店の発送や営業のテレホンアポイントのアルバイトを始める。
そのアルバイト先で知り合ったのが、後に音楽活動のパートナーとなる小川弘さんである。
「彼はブラックミュージックに興味があって、お互い楽器を使わずに音楽を作ろうと考えていた点でも話が合いました」
黒沢の4つ下、当時20歳になったばかりの小川さんは、当時を振り返ってこう語る。
「初めて飲みに行き、お酒を飲まされ1杯でダウンした僕に“鍛え方が足りない”と説教。本人はガブガブ飲んでおきながら、きっちりワリカンにされたのをよく覚えています(笑)」
2人は江東区の木場に6畳ひと間のアパートを5万円で借りると、そこにアルバイトで貯めたお金で買った機材を運び込み、作曲の勉強を始めた。
「2人とも最初は楽譜も読めなければ、コードも弾けない。今から思えば無謀といわざるをえません。とりあえず、“10年やって形にならなかったらやめよう”と申し合わせて始めました」(黒沢)