軍艦島&池島ツアーを子どもたちへ

 平成27年、軍艦島が世界遺産になっても、黒沢は決して満足してはいなかった。

「軍艦島が世界遺産になったことで、保護の観点から立ち入りがさらに厳しくなる。また炭鉱遺産といいながら、すでに炭鉱施設はすべて撤去されています」

 そこで目をつけたのが、長崎港から船で45分ほどの所にある「究極の炭鉱都市」池島である。

「池島は、昭和34年に出炭を始めて、平成13年まで操業した九州最後の炭鉱。つまり、軍艦島と池島の2島で、近代炭鉱の発祥から終焉(しゅうえん)までを見届けることができる。しかも、実際の機関車に乗ってリアルな坑道を見学できるのは国内で唯一ここだけです」

 黒沢は今年から軍艦島と池島の魅力を巡る『軍艦島&池島ワンデイツアー』を考案し、スタートさせた。

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 軍艦島の周遊を終えたツアーの船は、およそ1時間かけて池島に上陸した。

 9割の建物が廃墟と化し、「15年後の軍艦島」とも言われているが、今なお100人ほどの島民が暮らす。

 港に入ると、巨大な重機にまず目を奪われる。

重機の説明を聞きながら、「カッコいい~~」と声をあげ、夢中でカメラのシャッターを切る女性ツアー客も
重機の説明を聞きながら、「カッコいい~~」と声をあげ、夢中でカメラのシャッターを切る女性ツアー客も
【写真】美しくもちょっと怖い軍艦島の内部など(全12枚)

「あの巨大な恐竜のような姿をした重機は石炭を石炭運搬船に運ぶジブローダー。5000トンの運搬船を満載にするには、およそ10時間かかりました」

 そのほかにも、数々の巨大な重機が息を潜める池島港はまるで太古の昔を思わせるジュラシックパークのようだ。

 船を降りると公園では可愛いヤギがお出迎え。炭鉱進出以前からの島民が暮らす郷地区を抜け、池島炭鉱が栄えたころは不夜城と化していた歓楽街の坂を上る。操業時は小さなスナックや小料理屋、パチンコ屋が軒を連ねた場所。

 黒沢は、近年まで営業していたスナック『マキ』の前に立つと、懐かしそうに話し始めた。

「閉山した後も時折、店を開け、営業を続けてきました。マホガニーで統一されワインレッド一色の店内は、昭和まっしぐら。『昭和のタイムカプセル』と呼ぶにふさわしいお店でした」

 歓楽街の坂を上りきったところで、島唯一の宿泊所、池島中央会館が見えてくる。

「池島は商店街や炭鉱街を自由に散策できるのが魅力のひとつ。中でも約80棟が密集する炭鉱アパート群は必見です。最盛期には8000人弱が暮らしていた島で、まだ現役と見間違えるような外観のアパートもたくさんあります。炭鉱の工場からアパート群まで、炭鉱街のすべてが残る、まさにリアルな炭鉱テーマパークといえるのが、池島なんです」

各アパートの間取りや炭鉱職員の階級別に異なる家賃まで詳しくガイドする黒沢さん。炭鉱マンとその家族の暮らしが浮かび上がる
各アパートの間取りや炭鉱職員の階級別に異なる家賃まで詳しくガイドする黒沢さん。炭鉱マンとその家族の暮らしが浮かび上がる

 さらに島で唯一、信号のある池島小中学校前を抜けるとある建物の前で足を止めた。

「ここは池島総合食料品小売センター。かつて建物の中をぐるりと囲むように軒を連ねた店舗と、中央のスペースには行商のおばちゃんたちが売りにくる野菜棚が並んで“市場”と呼ばれ、連日賑(にぎ)わいを見せていました」

 と、8000人の胃袋を支えた台所に想いを馳せた。

 黒沢には、このツアーを通して叶(かな)えたい夢がある。

「明治以降150年にわたって日本経済を左右し、ときに翻弄(ほんろう)されてきた軍艦島と池島の歴史こそ、日本の縮図。その歴史を、修学旅行を通じて子どもたちに伝えていきたいですね」

 今夏には、黒沢の発案で新たなプロジェクトも始まった。音楽家、写真家、画家といったアーティストを軍艦島に呼び、作品を作ってもらうというのだ。

 ツアーを終えた黒沢に、改めて軍艦島伝道師になった理由を尋ねてみた。

「今思うと、昔から僕が興味を持つのはほかの人がやっていないことばかりだった。もしかすると、軍艦島に惹かれるのは、規模が小さいながら数々の国内初の挑戦をし、成し遂げてきた姿に共感するからかもしれません」

(取材・文/島右近 撮影/渡邉智裕)