「家にどえらいものを入れてしもうた」
「この家に移したとたん、“どえらいものを入れてしもうた”と思いましたわ(笑)。
毎日毎日、“(奈良の自宅に)帰らせろ!” “なぜ閉じ込める!?” “私の金が目当てなのか!?”って、扉を叩(たた)く、暴力をふるう、家の中で5時間でも怒鳴り続ける」
それでも同居を続けたのは、預かってくれる施設がなかったからだ。
「暴言、暴力、徘徊が凄(すご)くって、デイサービスを2か所クビになってます。デイをクビになる認知症がどれだけ凄いか。家にヤクザがいると思ってください。ほかの人への迷惑を考えれば施設だって受け入れてくれない。預けなかったのは“逃げたくても逃げられなかったから”。預かってくれるんなら、預けとるわ!(笑)」とは言うものの実に見上げた孝行娘ではないか。
認知症発症以前のアサヨさんは、やさしい母親で感謝の念ゆえの親孝行と思いきや、
「ウチは絵に描いたような親子断絶家庭。私は18歳で家出しています。ずっと音信不通で、40歳ぐらいでやっと盆と正月は帰るようになりました」
会社員だった父・正夫さん(故人)はとても厳しくワンマンな人だった。母・アサヨさんは正夫さんの勤務先の保健室で看護師として働き、それが縁で恋愛結婚。2人の子をもうけたが、アサヨさんは正夫さんに従わず逆らってばかりいる子どもたちを恨んだ。父親も母親も厳しいだけで「いい大学に行き、いい会社に就職しろ」と言うばかり。当然、子どもたちは反発する。章子さんも2歳年下の弟さんも、中学からは両親とは口もきかない状態に。章子さんは大阪芸術大学舞台芸術学科入学を機に家を出て、アルバイトで自活する道を選んだ。
そんな娘に助けられたアサヨさんだったが、日ごとに暴言や徘徊に拍車がかかっていくばかり。
住んでいるマンション9階の窓から身を乗り出しては、
「“監禁されています! 人殺し! 助けて!”と叫ぶ。果ては、“あんた(章子さん)のこと信用できないから、交番に行って相談してくる!”。
そのうち交番のおまわりさんも慣れて、“おばあちゃん、来ましたよ~”と電話をくれる。迎えに行くと、“信用できない”はすっかり忘れ、“迎えの者が来ましたので帰ります”。
このへんには7か所交番や警察署がありましたが、異動の際はちゃんと引き継ぎしてくれて、“ああ、これがあのおばあちゃんね!”。ウチの母は有名人ですわ(笑)」
だが、昼夜を問わない家出や罵声(ばせい)、騒音に、気が滅入らない人などいない。同居を開始して数か月後には、章子さんは徘徊を止めるのではなく、好きなだけ歩いてもらうよう方向転換を決断する。
「母がわめき、物を叩いている音は戦場と同じ。戦争でバキューン、爆弾がバーン、自動小銃をバババと撃たれたらおかしくなるじゃないですか。
だったら徘徊させまくって、疲れさせて寝かしたほうがええ、と思ったんですよ」
さらにはアサヨさんを、友人やギャラリーにやってきた人たちに紹介もすれば、行きつけの居酒屋にも連れ出すことを自ら決めた。
章子さんとモンスターママリン・アサヨさんとの決して隠さない、むしろ“お披露目系”ともいうべき徘徊生活の幕が切って落とされた。