いつか天国の父に届くまで……
2000年、正式にジャズシンガーとしてメジャーデビューを果たし、ファンも増えてきた五十嵐さん。しかし、「私の歌なんて、なんの役にも立ってへんやんか!」と引退を考える出来事に直面する。大切なファンの自死である。
「歌好きの女の子でした。いつもカップルで聴きにきてくれてね。ただ、その彼と結婚して幸せだったのですが、環境の変化のためか、心の病になったと聞かされていました。私もお見舞いに行きましたが、しばらくライブに来られなかったんです。でも、“クリスマスライブには行きたいです”という連絡があり“元気になったんだね”と喜びました」
ライブ当日、久しぶりに彼女やその家族と一緒に記念写真を撮ったりして楽しい時間を過ごした。だが翌日、友人からの電話で、亡くなったと聞かされた。
“私はなんのために歌っているのか”“私の歌なんか、なんの励ましにもならない”“歌って、自分だけがいい気持ちになっていたんじゃないか”と落ち込み“歌えない、歌いたくない”と、ふさぎ込んでいった。
五十嵐さんは自死したファンの仏壇に手を合わせに行き、頭を下げた。すると、彼女の夫から、「それは違います。五十嵐さんがそう思ったら彼女が救われません。彼女は最後に五十嵐さんの歌が聴きたかったんです。だからこれからも歌い続けてください」と言葉をかけられ、その場で泣き崩れた。
「逆に励まされちゃいました」と涙目で苦笑するが、これがジャズシンガーとしてのさらなる飛躍にもつながった。
五十嵐さんは休暇を利用してマネージャーとニューヨークに渡った。多くのライブハウスを訪ね、勉強も兼ねてジャズにどっぷり浸かった。
ある店で歌うことになった五十嵐さん。歌い終わるとジャズを知り尽くした本場の客がスタンディングオベーションをしていた。コースターの裏にサインもせがまれた。
服部氏と同じように「日本から来るシンガーは黒人歌手のまねをする人が多く、誰をまねしているかすぐわかる。でも、こんな個性的な歌声は初めてだ」とニューヨーカーは絶賛したのだ。ささやきかけるようなエンジェルボイスは新鮮だった。
五十嵐さんは自死したファンのことも思いながら、「もしかしたらお客様にとって、これが最後に聴くステージになるかもしれない。そう思いながらお客様のために歌おう」と改めて決意したのだった。
五十嵐さんは自身が「ナルシストでいよう」と心がけている。自分の美しさに酔いしれるのではない。「自分が好きになる自分を作ろう」ということだ。
「例えば人様に何かいいことをしたら、それをした自分を好きになるじゃないですか。化粧が上手にできたら、その化粧ができた自分を好きになる。そうすることで自然に周囲にも優しくできます。そしてマイナス部分をプラスに変えるには、それを個性にすればいい。その個性を作れるのは自分自身だと思うんです」
五十嵐さんは歌を聴いたお客さんに対して「みなさんそれぞれの受け止め方があるでしょうけど、何かを伝えられ、そして心を癒していただけたらうれしいですね」と思っている。
そう言った五十嵐さんがふと、
「でも実は、どんなに歌っても満足することがない」
とつぶやいた。
どういうことなのだろう。次の言葉を待つと、亡き父、憲治さんへの思いがとめどなくあふれだした。
「父はヤンチャな私しか知らないんです。ジャズシンガーになって、こんなにも拍手をいただいている姿を見せることができませんでしたから。だから、いくら歌って頑張ってもその姿は父に届かないんじゃないかなって。
今、私は自分でも信じられないくらい多くの出会いがあり、その方たちに支えられています。父はいつも“出会いを大切にしろ”と言っていましたから、ヤンキーだった私を心配して天国で導いてくれているんでしょうね」
中学のときコンパスで手に穴をあけ、そこにインクを垂らして入れ墨のまね事をしたことがある。憲治さんは「人様はこれを見て、お前という人間を判断してしまうんやぞ」と烈火のごとく怒った。
「せっかくの出会いが、そんないたずらで台無しになってしまうと教えてくれたんですね。その父への恩返しも込めて、これからも、ずっと歌い続けていきたい。みなさんが“今日は楽しかったよ”と言ってくださるエンジェルボイスが、いつか父に届きますようにと願いながら」
★五十嵐さんのLive、ラジオ番組など、詳しくはホームページで。
(取材・文/伊藤進司 撮影/坂本利幸)
伊藤進司◎ノンフィクションライター。大学在学中よりライターとして活動をはじめ、卒業後は週刊誌、月刊誌、インターネットニュースサイトなど幅広い分野で執筆。ジャンルは社会風俗から歴代総理大臣夫人のインタビュー集まで、分野は多岐にわたる。