明治・大正・昭和への改元がどのように行われたかを見てきましたが、平成への改元はどうだったのでしょうか。
みなさんも、小渕恵三官房長官(当時)が「平成」という文字を掲げていた様子はよくご存じのことと思います。リアルタイムで見ていなくても、その写真は多くの方が目にしていることでしょう。あのイメージが強いと、「平成」という元号は政府が決定したと思いがちですが、やはりこの時もしっかり天皇が認定をするというプロセスを経ています。
時間軸に沿ってもう少し詳しく説明すると、まず昭和54(1979)年に元号法という法律が決定されました。
なぜかというと、実は第二次世界大戦後、日本には元号に関する法律がありませんでした。「昭和」という元号が、ずっと習慣的に使用されてきたにもかかわらず、それをきちんと公認する法律は不思議なことに存在しなかったのです。しかし、それではまずいのではないかという声が上がるようになり、元号法の制定につながっていきました。
「平成」という元号が決められた経緯
元号法では以下のようなことが定められました。「元号は、政令で定める」「元号は、皇位の継承があった場合に限り改める」。つまり、政令に基づく形で新たな元号を決めることと、明治のはじめから使われているルールを追認して、一世一元とすることがうたわれました。
またこの法律には附則があり、「この法律は、公布の日から施行する」「昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする」とされています。元号法が施行された際、すでに用いられていた「昭和」の根拠もここで明確にされたのです。
この元号法に基づき、昭和の次の元号のために、かなり前から有識者に相談し、多数の案が出されたのち3案に絞られ、最終的に1案となり、閣議決定が行われました。
すなわちここで、政令で定めるという元号法にのっとった形がとられ、その後、新天皇の允裁(天皇が決裁すること)を受けることで、ようやく小渕氏が発表するということに相成ったわけです。閣議決定も重要ですが、それだけでは不十分で、“天皇が自らそれを認定する”という大変重要な手続きがとられたわけです。
では、皇位継承の際に新しいものを定め、天皇が允裁し、政令で定められれば元号はどのようなものでもいいのでしょうか。さすがにそうはいかず、1979年に元号法を定めた際にも、どのようなものが元号にふさわしいかという基準が同時に定められています。