大海原の真ん中で船から放り出されてしまったら、人や物、周囲のどんなものにも必死になってしがみつき、決して離そうとしないだろう。
放置子もまったく同じ状態だ。本能で優しい人を見抜き、少しでも可能性があれば全力でしがみつく。しかし、自己抑制ができないから、しがみつかれた側はすぐに息苦しさを感じ始めてしまう。
「だから放置子だとわかったら、いち早く児童相談所や小学校に伝えてください。個人で救うのはまず無理。疲れきって溺れてしまう。社会全体で育てざるをえないのです」(深谷准教授)
「ショックを受けるかも」という躊躇はいらない
放置子が“また捨てられた”と傷ついたり、ショックを受けることはないという。
「“児童相談所に相談されてしまった自分”にショックを受けるのは、自分を客観視できるからです。それができるなら、息苦しいほど他人にしがみついたりはしません。ショックを受けるかもと躊躇するより、一刻も早く保護すべきなのです」(深谷准教授)
大きな視野からは、親に親としての意識が育つ社会にすることが必要だという。
「今の教育は、可能性を引き出して自己実現を支援する“あなたのための教育”が中心で、他者のために自分が犠牲を払うという“他者のための教育”が手薄なのです。
例えば部活動ならば、以前は“チームのために頑張ろう”とか、“試合には出場したいけれど、ライバルが出たほうが勝てそうなので涙をのむ”といったことがありました。ですが少子化社会では、試合に出る人数をそろえることに苦労することさえあります。
そんな環境で育った両親の意識の中に、教育費から時間まで、親側の自己犠牲のもと、“この子が幸せならば私も幸せ”と感じる気持ちや、自己実現以外の喜びをどう育てるか……。とても難しい問題です」(深谷准教授)
社会全体にも“子どもは社会のものであり、コミュニティー全体で育てる”という意識改革が必要だという。
身近な範囲でのそれは、かつてのように地域全体で子どもの状態に気を配り、ときにはわが子同然に叱りつけ、叱られた子の親もそれを当然として受け止めることだろう。
アメリカなどに倣い、子どもの権利は親の権利よりも上位にあると周知徹底し、不適切な親であれば子から親を引き離すことを当たり前とする社会の熟度が求められる。
千葉県野田市の小学4年・栗原心愛さんの虐待死事件では、父・勇一郎容疑者が“娘を連れて帰る。名誉毀損で訴える”と強気に出て児童相談所を怯えさせ、虐待死へとつながった側面がある。
しかし、“子どもは社会全体のもの”という共通認識が徹底されていれば、児相が怯えることなく立ち向かい、心愛さんを救えたかもしれない。放置子の問題も、社会のあり方や、私たちの心の持ちようの改革から考えるべきなのだろう。
(取材・文/千羽ひとみ)
《識者PROFILE》
深谷野亜 ◎ふかや・のあ。松蔭大学コミュニケーション文化学部准教授、学生相談室長。大正大学、明治学院大学非常勤講師。共著に『こども文化・ビジネスを学ぶ』(八千代出版)のほか、『日本の教育を考える第三版・第四版』『育児不安の国際比較』(いずれも学文社)など