幼いころは、静かな子どもだった。クラスの寄せ書きなどでは《羊みたいにおとなしい古市君》と書かれた。

「小さいときからまったく手がかからない、聞き分けのいい子でした。私たちを怒らせたり、手を煩わせたりすることもありませんでした」

 家族は父方の祖父母と両親、2歳上の姉と双子の兄がいる。兄と姉と同じ私立の中高一貫校に通った。学校以外では合気道を習った。

 思春期を経て、「羊」は卒業。本人いわく、「自分がやりたいことをやる唯我独尊的な」キャラクターが徐々に顔をのぞかせる。

大学3年生の古市さんと母・寿恵さん
大学3年生の古市さんと母・寿恵さん
古市さんの半生と奮闘の日々

 高校時代は10万円の時計が欲しいからとアルバイト。とことん節約し、学食で友達が食べ残したうどんの汁を「これ飲んでいい?」とお相伴にあずかったと聞いた寿恵さんは、「そんなこと、やめなさ~い!」と泣き笑いで叫んだ。

 大学生になると「やめなさ~い!パターン」はさらに増える。

「お母さん、二十歳の記念に写真撮ってくれる?」

 上半身裸で、黒のスパッツをはいた息子にカメラを渡された母は「なんで裸?」といぶかしがるもパシャッと撮影。

 あとで聞いたら、総合格闘技『パンクラス』の練習生応募に使う写真だった。テレビ中継を見てプロレスの魅力にとりつかれていた息子は、入門まで逆算してトレーニングメニューを考え、肉体改造。

「書類審査も通ったから、あとは親の許可だけなんだ」

 とサインを迫った。

「やめなさ~い! 格闘技なんて見るのも耐えられない。大反対!」と母は叫んだ。

 幸いにも、尊敬していた合気道の師匠が「おまえは人生をなんだと思ってるんだ! 30代で現役が終わったら、残りの人生をどうするのだ」と諭して、熱を鎮めてくれた。

祖父のように死にたい

 そんな古市さんに最も影響を与えたのは、亡くなった祖父の泰治さんだ。

 戦後、満州から引き揚げ、口では言えない苦労をしながら不動産業を成功させた祖父のもとには、政治や経済、文学など、さまざまな分野で名を馳せた人たちが集まった。ソファに腰かけた祖父のひざの上に乗せられた古市さんは、大人の話を聞き続けていた、と母・寿恵さんは振り返る。

中学生の古市さんと尊敬する祖父・泰治さん
中学生の古市さんと尊敬する祖父・泰治さん

「カリスマ的な父でした。人を魅了する。困っている人がいたら手を差しのべようと動く。家族全員、父のことが大好きで尊敬していた。盛久のこともすごく可愛がっていました」

 古市さんが小学5年生のとき、祖父は東京都中野区に3階建てのビルを建てた。1階を女子学生限定の17部屋のワンルームにして賃貸マンションに。すべてに防音設備が施された。地域に複数ある音楽系の大学生たちが自宅で練習できなくて困っていると聞いたからだ。なかには、映画『ラストエンペラー』のテーマ曲を演奏した二胡の名手、姜建華さんも。年に数回、近隣の人を集めて音楽会を開いた。

 さまざまな大人たちと過ごした時間によって、古市さんのコミュニケーション能力は育まれた。そして、豊饒な時間は、祖父ががんになってクライマックスを迎える。

 大学3年のとき、泰治さんと父・精宏さんが父子同時に大腸がんと診断されたのだ。父は抗がん剤治療の末、回復したが、末期だった祖父はほどなくして亡くなった。85歳だった。

 祖父の希望で、最期は自宅での緩和ケアに。そこで家族以外の人が大きな力をくれた。

 当時、祖母は認知症。15分ごとに「あれがない」「これがない」と何かを探し回る。そんな祖母とがん闘病中の夫の世話をする寿恵さんに、末期がんの舅の在宅看護は無理な話だった。

 途方に暮れる家族に「僕が仕事を辞めて最期まで付き添います」と申し出たのは、病院の清掃員を務めていた男性だった。病室でふとしたおしゃべりがきっかけで、祖父と仲よくなった人だ。

 祖父が亡くなった日のことは、古市さんの脳裏に焼きついている。家族全員で身体をマッサージしていたら、不思議なことが起こった。

「祖父に面倒を見てもらった人や仲間たちが、どんどん集まってきました。危篤だということを誰にも知らせていないのに、みなさん“嫌な予感がして”とか“会いたくなって”と」

 息を引き取った祖父の周りに、人々が二重の輪をつくってむせび泣いていた。

 祖父のような人になりたい。祖父のように死にたい。

 20歳にして、生き方、死に方の手本を目に焼きつけた。