《1973年(昭和48年)3月、桜の花が開き初めのころ、わたしは京都花月に出演していました。楽屋までの小さな公園を横切って、楽屋へのコンクリートの階段に一歩のせたときのことです。背後から「モシモシ」という声がしました。振り返ると、長髪の高校生が立っていました。
「なにか用?」
「弟子にしてください」
「それはええけども、何でわたしの弟子になりたいのか?」
「あんたはセンスがあるから」
わたしはうっかり、
「ありがとう」といって頭を下げてしまいました。初手から負けです。これが明石家さんまとの初対面でした》
飛び込んできた弟子を“笑福亭さんま”と命名。それは、彼の実家が水産加工業を営んでいたからだ。
地元の奈良県でカラオケバーを営むさんまの実兄は当時の様子をこう振り返る。
「入門してすぐのころに、“さんまという名前をもらったんや”というようなことを、うれしそうに話していましたね。松之助師匠は私たちの弟が亡くなったときに、お通夜から葬儀やら四十九日とかの法事のたびに、何度も奈良へ来てくださいました。本当に律義な方でしたね。彼の成功が今あるのは、本当に師匠のおかげですわ」
さんまは弟子入りして7か月後に女性と東京に逃げたことがあった。だが、師匠は周囲の心配をよそに「あいつは必ず戻ってくるから」と周りに言っていたという。
「約半年後に師匠のもとへ戻ってくると、何も言わずにラーメン店に連れて行ってくれたそうです。そして松之助師匠は再出発に際して、さんまさんが落語家ではなくタレントのほうが向いていること、また屋号が自分たちの勢力範囲を示しているような感じがしていて不自由さを感じていたことから、笑福亭から自分の本名でオリジナルの“明石家”に改名させて再デビューさせたのです」(放送作家)
さんまが座右の銘としている『生きてるだけで丸儲け』という言葉。これは松之助師匠から、「人間は裸で生まれてきたから、服一枚着ただけで勝ちなんや」と話されたことから生まれている。
さんまが娘に“いまる”と名づけたのもそれが由来になっている。
そのことが師匠も相当うれしかったのか、
《さんま、が「生きてるだけで丸もうけ」と言って娘に「いまる」と名前を付けた》
と、'15年11月14日付のブログで綴っており、さらにこの言葉が朝ドラの『わかば』でもセリフとして採用されたときの舞台裏エピソードも紹介していた。
最愛の師匠を亡くしたさんまに話を聞こうと、2月下旬に車で帰宅したところを直撃した。
─松之助師匠がお亡くなりになりましたが?
「近々、正式にコメントを出すので」
─師匠とのいちばんの思い出は何でしょうか?
「ないわ!」
そう言うと、
「シャッター下がるよ」
と言い残して、自宅に消えていった。
決して涙などは見せなかったが、その胸の内は悲しみにあふれていた……。