心が折れそうになった大手術
不安な彼女を支えてくれたのは、同じ脳腫瘍で入院していた仲間たちだった。
「4人部屋で、おばあちゃまと、中学3年生だったJちゃん。亡くなっちゃいましたけどね。あと、朋代ちゃん!」
特に、同部屋になった小学4年生の“朋代ちゃん”こと山本朋代さんには、どれだけ励まされたことか。母と娘ほど年の差がある2人だが、仲よしになった。
「娘というより、同じ病気を乗り越える“友人”って感じかな。だってねえ、ベッドの上でこんなになっていた(身体を縮こませる)女の子が、手術後はこんな(大手を振って歩く)ですもの。なんでこんなに元気に歩けるんだろうってぐらい。彼女にしても必死に頑張ったんだろうな、って思った。年齢じゃなかったんですね」
“小さい身体で朋代ちゃんも頑張った。だったら私にだって頑張れる─!”
元気になった朋代ちゃんの存在が、何より心強い無言のエールとなった。
手術当日は“手術を終えたら車を買ってくれよな!”という次男・誠さんの言葉を背に手術台へ。
当時を思い出し、誠さんが笑いながら言う。
「不安がっているのがわかったから、不安を取り除こうと思ってね(笑)。ああした性格だから明るく振る舞ってはいたけれど、やはり身内には、“大丈夫かな? 大丈夫だよね?”と何回も尋ねたりして。でも見えなくなる原因が脳腫瘍とわかってからは“闘ってくるからね!”と。前向きなんですよ」
ドクター2人がかりで執刀した数時間の大手術は無事、成功。うれしいことに大きな障害も残らなかった。とはいっても、意識が戻って目が覚めたときには指すら思うように動かせず、おまけに額には大きく切開した痕が……。思わず心が折れそうになった。
傷痕など、身体の機能を回復させるためのリハビリの厳しさを考えれば、どれほどのものでもない。そう考えて、土屋さんは自宅で3年間もの時間をかけ、リハビリに励むことになった。
長いリハビリ期間中つらかったのは、大好きな給食の仕事ができなかったこと、そして何よりも、子どもたちの笑顔を目にできなかったこと、と振り返る。
そんな土屋さんが給食の仕事に就いたのは昭和55(1980)年、当時、小学校に通っていた息子の笑顔がきっかけだった。
「長男の国人がね、学校から帰ってくると、“今日も牛乳もらって飲んだんだ!”と喜んで報告をするんですよ。
“もらったってどういうこと?”と聞くと、給食の牛乳に余りがあるでしょ?“今日も給食おいしかったよ!”と言いに行くと、喜んで余った牛乳をくれたそうなんです」