狭くなる視野、そして限界
週2回、保育園を休ませて療育に通い始めると障がい児を持つママ友ができた。療育とは障がいのある子どもが自立できるように、医療と教育を並行して進めることだ。
それまで立石さんは両親や友人など誰にも苦しい胸の内を明かせなかったが、同じ立場のママ友には何でも話すことができた。
もっと年上の自閉症児を持つ親にも会ってみたい。そう思い『日本自閉症協会』に入会した。当事者と親の集まりに参加すると、30代の子を持つ50代の親など、あらゆる年代の親子がいた。
勇太君が4歳を過ぎてもスプーンや箸を使えず、手づかみで食べていることを相談すると、先輩ママからこんな答えが返ってきた。
「世界の半数以上の国が手で食べる文化なのよ。手さえきれいに洗っておけば、問題ないんじゃない?」
立石さんはハッとした。そして普通の子に近づけたいと焦るあまり、視野が狭くなっていたことに気がついた。
勇太君が年長になったある日。2人で渋谷に買い物に行き、家電量販店で勇太君を見失ってしまった。どのフロアを探してもいない。自分も半分パニックになって必死に走り回りながら、同時にこんな思いが浮かんできた。
「このまま見つからなければいい……」
ふと店の外を見ると、横断歩道の手前で泣き叫ぶ勇太君が見え、駆け寄った─。
なぜ見つからなければいいなどと思ったのか。理由を聞くと、立石さんはしばらく考えてこう答えた。
「楽になりたかったんでしょうね。自閉症の子を育てるだけでも大変なのに、食物アレルギーがあったから、もう、気が抜けない。迷子センターでお菓子を出されて食べて死んでしまったらどうしようとか。ずーっと見張ってないといけないから、いつも神経がピリピリしていたんです」
立石さん親子が歩んできた道のりを、小児外科医で作家の松永正訓さん(57)は著書『発達障害に生まれて 自閉症児と母の17年』にまとめた。実は、立石さんからこの迷子のエピソードを聞いて、本を書こうと決めたのだと松永さんは話す。
「勇太君が自閉症と診断されて数年後の出来事ですよね。自分の子どもの障がいを受容するのは簡単にはできないんだと実感したんです。受容したと思っても時間がたつとまた否定する気持ちになって、行きつ戻りつするんですね」
昨年9月の出版以来、障がい児を持つ親以外の人たちにも反響が広がっている。
「日本は横並びの文化で同調圧力が強いから、立石さんも最初は“普通”“世間並み”からはずれることに非常な恐怖感を持っていたんじゃないですか。でも、普通からはずれても、惨めで悲しいわけじゃない。生き生きとした豊かな世界があると気がついたから、今の彼女は幸せなんだと思います」
今は普通という呪縛から解放された立石さんだが、勇太君を産むまでは、むしろ逆の価値観にしばられていた。普通以上に頑張ることを求められて育ち、期待に応えようと努力してきたからだ。