父の冷たい言葉と、鉄格子の少年
多様な子どもに対応できるよう働きながら小学校、特別支援学校の教員免許も取得した。
教材作成や指導のマニュアル作りも担当したが、立石さんはまだ24歳と若く、年上の指導員たちからは陰口をたたかれた。
「子どもも産んでないのに、偉そうにマニュアル作って、私たちに指導する気?」
腹が立ったが、「本当だな」とも思った。立石さん以外は子どもを持つ母親ばかりで引け目を感じていたのだ。
ギクシャクした関係を引きずるより、自分で会社を作ろうと決意した立石さん。1千万円の貯金を投じ、1995年12月に起業し、課外教室『エンピツらんど』を始めた。
最初の2年は持ち出しが続いたが、持ち前の熱心さで徐々に軌道に乗り、生徒数7500人、年商5億円にまで成長した。
勇太君を産んだのは起業から5年たち、経済的な心配もなくなった2000年。38歳のときだ。
初孫が自閉症だと両親に告げると、昭和ひとケタ生まれの父は冷たく言い放った。
「墓守なのに難儀な子を産んだな」
幼い勇太君がパニックを起こすと、父は「うるさい!」と怒鳴りつけた。
母は勇太君を可愛がり面倒も見てくれたが、立石さんは悩みや苦しみを打ち明けることはできなかった。弱い自分を見せると子どものころのように「ちゃんとしなさい」と怒られる気がして、今も鎧を脱げないままでいる。
立石さんが考え方を変えるキッカケになったのは、ショッキングな光景を目にしたことだった。
病院の一角にある療育施設に向かう途中、ふと病棟を見ると、鉄格子の窓の向こうに小学4、5年生くらいの男の子がひとりパジャマを着て立っていた。
近づくとベッドとイスにベルトがぶら下がっている。身体を縛って拘束するためのベルトで、見た瞬間に自らのつらい過去が蘇った。そして、その少年の姿と6歳の勇太君が重なって見えた─。
「息子の障がいがわかって、少しでも健常児に近づけたい、親の努力で何とかしてあげたいと必死でした。苦手な音を克服させようと、嫌がるのにジェットタオルを使う訓練をしたこともあります。
でも、そうやって無理強いしていると、いつかツケが回って2次障がいを起こして入院するかもしれない。先輩ママたちから何度も忠告されていたのを思い出して、怖くなったのです。自分が鉄格子の中にいた経験があるので、よけい恐怖を感じたんですね」
2次障がいとは、もとの障がいに適切に対応できず、心身に異常をきたすことだ。うつや不登校、家庭内暴力、自殺願望などさまざまな事態を引き起こす。
その日から、立石さんは考え方を変えた。勇太君の世界を理解し、あるがまま受け入れよう。そう決めると立石さん自身も楽になった。