どんな人でも「失いたくないもの」や「幸せを実感できる人」を作れるのが健全な社会のあり方。専門家を含む組織的なフォロー体制の構築、対面コミュニケーションを増やす環境作り、メディア・自治体・任意団体による啓蒙活動、情操教育の見直しなど、できるだけ幸・不幸の格差を埋める社会的なサポートが求められているのではないでしょうか。

怒りは出し尽くせず、心の中に宿る

 次に、「『犯人を批判する』という感情に基づくファーストステップに続く、理性的なセカンドステップが求められている」に話を移すと、現状では「そんなことはわかっているけど、そんなにうまくできない」という人が大半を占めています。

 そういう人が感情論に終始してしまう最大の理由は、自分の感情を整理できていないから。自分では「怒りの感情を出し尽くしたから、ここから先は理性的に考えられる」と思いがちですが、その思考回路こそが落とし穴。怒りの感情は「出し尽くした」と思っていても、心の中に宿り続けるため、なかなか理性的にはなれないものです。

 例えば、「上司が同僚を叱ったあとに、自分もとばっちりを受けて叱られた」「恋人や家族に怒りをぶちまけたあと、ムカムカしてなかなか眠れなかった」「この前と同じ理由で、また怒ってしまった」。これらはすべて怒りの感情が心の中に宿り続けているからであり、感情は自分で思っているほどうまく切り換えられないのです。

 自分の感情を整理するために大切なのは、一つひとつの感情と向き合って片付けていくこと。実際、「怒っている」という感情も分解していくとさまざまなものが混じっていて、それはまるで散らかっている部屋のようであり、一つずつ片付けていく必要性があるのです。

 下記に、今回の事件でコメントとして飛び交っている感情を一つずつ挙げていきましょう。

 最も目についたのは、「犯人はサイコパス。社会には一定数いるものだから仕方ない」というコメント。「犯人を生来の悪とみなすことで思考回路を閉じてしまおう」というものですが、そうコメントしたところで割り切れるものではなく、けっきょく怒りの感情を心に宿してしまうものです。また、「相手を生来の悪」とみなすことで必然的に「自分は正義」という対極の立ち位置になりますが、よほど清廉潔白な人でない限り、居心地の悪さを感じてしまうでしょう。