吉田さんのご両親は他界しており、2人の関係を説得する親の数が少ないことには正直ホッとしたと打ち明ける。

「それに母は、吉田くんのことをきっと気に入ると思いました。吉田くんのすごくまじめなところや、ご両親を亡くされて苦学されていることとかです。母が“いい子やね”と言ってくれるような感じがあったんです」

 将来への期待が芽生え始めた翌2001年4月、和行さんは大阪の建材メーカーに就職。京都のワンルームマンションを引き払い、大阪に引っ越すことになった。実家は手狭だったので、目の前のマンションに部屋を借りることに。

彼氏の母の冷たい態度

 ヤヱさんはここで初めて、息子の同性の恋人と対面することとなる。

 それは同年3月、和行さんの引っ越しでのことだった。

 荷ほどきを手伝おうと吉田さんが大阪の引っ越し先に到着したが、運送会社のトラックがやってこない。肌寒い中、まだ電気も通じていない部屋にいることもないと、2人で誰もいない実家に行き、荷物の到着を待っていた。そこにヤヱさんが帰宅したのだ。

 この瞬間の、初対面2人の記憶は微妙に食い違う。ヤヱさんは、その場面がほとんど思い出せないという。

「吉田くんが手伝いにきてくれていたみたいなんですよ。でも和行は、“この人が吉田くんで僕のパートナー”というような紹介は、してくれなかったように思います」

 一方、吉田さんの記憶では、その場の空気がたちまち冷たいものになったという。

「そのときは友達として紹介されたんです。でも(ただの友達ではないと)わかったんだと思います。一応、“晩ごはん、食べてって”と誘われたけど、僕の記憶では、(ヤヱさんは)すっごく冷たかったという印象しかなくて、“いいです”と断って帰って。そのあと、“帰ってけぇへんと言ってたやん! あんな態度とられて、もう2度と会わへんから、会わすな!”そう怒鳴ったのを覚えています

 お互いに最悪の感情で別れた1年後の2002年3月、和行さんは入社した建材メーカーを1年たたずして退職する。アルバイトをしながら予備校に通い、吉田さんとともにロースクールに入学し、弁護士を目指すためだった。

 だが、これは、当時のヤヱさんには救いとなる。

「無我夢中で司法試験を受けることで、同性愛なんかきっと忘れて治ってくれる。そう思ったんです」