原発避難者へのいじめや生活保護受給者へのバッシング、隣国に対するヘイトスピーチなど、近年、日本社会の不寛容さが目立つ。この空気はなぜ始まり、どうすれば変えられるのか。宗教学者の島薗進さんに聞いた。
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「力の支配」に人心や社会がなびいている
過去にも、ヒロシマ・ナガサキの原爆や水俣病の被害者など、周囲から差別され声を上げにくい状況がありました。つらい経験や悲しみを口にするには同調圧力に抗わなくてはなりません。何十年もたって、やっと声を上げられるようになるんです。
1970年代は、日本の歴史の中でも被害者が政府に抵抗する行動が比較的できた時期です。'60〜'70年代は民主化の大きな流れがあり、'89年のベルリンの壁崩壊に至るまでは世界的にも自由を目指す雰囲気がありました。
しかし、その雰囲気は'80年代で終わります。平成は、日本では戦争がなく平和だったといいますが、自由に向かう空気は弱まり、世界全体が方向性を失ったと思います。
近年は、産業利益が国の利益と結びついて、強いものが勝つ「力の支配」が横行しています。市場原理を第一に考える新自由主義・自由競争の中で、民主的であることより経済が優先され、「自己責任」の空気が蔓延しているのです。そして、選挙で勝てば何をしてもすべて正当化するかのような現政権の印象もあります。
「力の支配」による問題が顕在化したのが2011年の東京電力福島原発の事故でした。一時は「これでよかったのか」と、社会全体がこれまでを振り返る空気がありました。
しかし、それに対する断固たる反動がいま、現れている気がしています。夢も希望も理念も愛もない、被災地に対して思いやりもない。「力の支配」に人心や社会がなびいてしまっている。
なかでも原発事故における一部の専門家のふるまいはまさに、「力の支配」を表すものでした。専門性を振りかざして、被ばくを恐れる女性を無知であるとバッシングする風潮もありました。かつては、市民の平和や、弱い立場にある個々人のための科学や思想が力を持っていましたが、社会の発展とともに、専門家は競争での勝利を目的とし、市民としての目線を弱めてしまった。
核開発の歴史ではそれが顕著です。被爆地の研究者の一部が核開発と協力しはじめました。そのため、核開発による健康リスクを低くみせる研究が重要になり、それが顕著になったころに'11年の事故が起きてしまいました。