生きていくために父親から月10万円
飲食店、清掃、宅配便、工場など彼はアルバイトを転々とした。
「どこもきつかったですね。工場で部品を組み立てる仕事をしていたときは、上司が“10分でやって”とストップウォッチを持って立っている。だけど、僕は要領が悪くてできないんですよ。そうするとみんなの前で大声で叱責されて、ますます萎縮する。その繰り返しでした。昼休みも周りの目が気になって、社員食堂にはいられない。だからパンを食べながら工場の外を歩き回って、結局、昼休みが終わって戻ってきたときにはクタクタになって、仕事どころではなくなってしまうんです」
心身ともに疲弊していき、24歳のころ精神科にかかるようになった。安定剤や導眠剤を処方されたが、週に5日、めいっぱい働くのはむずかしい。週休2日では、身体はもとより心が回復しなかった。
「みんなに迷惑をかけたのではないだろうかとか、あの人は何であんな言葉を僕に投げかけたんだろうとか、ずっと考えてしまうんですよ。そういえば子どものころ、僕は母の不機嫌さを毎日、敏感に感じ取っていた。今日は少し機嫌が悪そうだから話しかけないでおこう、とかね。それが習い性になって、やたらと人の気持ちを考えたり、人の感情に振り回されたりするところがあるのかもしれません」
それでも必死で働き、資金をためて28歳で大学入学。10年間、こつこつ貯めて勉強もしていたのだ。しかし翌年、学費を払えずに退学した。誰にも相談できなかった。せっかく入った大学なのに。
「心身ともにくたびれきっていましたしね。30歳を迎えるころには、働くのもむずかしくなりました。そこで両親に手紙を書いて、“精神科にも通っている。もう無理なので仕送りしてもらえないか”と初めて助けを求めたんです。
母は精神科に通っていることがショックだったようですね。母から返事が来て“私にも悪いところがあったと思う”と書いてあったけど、3人の子のうち僕だけを褒めなかったという自覚はないみたいでした。本当は褒めてほしかったし愛されているという実感もほしかった。だけど僕も今さらそれは言えないと思っていました」
生活保護を受給する手もなくはなかった。だが彼は「生活保護を受けるくらいなら自殺する」と手紙に書いた。命と引き換えならしかたがないと、以来、父親が毎月10万円を封筒に入れて持ってきてくれる。それから今にいたるまで、彼は仕事をしていない。
「正直、父には申し訳ないと思っています。兄や妹とは今は交流がありませんが、以前は“親からお金をもらっているようじゃダメだよ”と説教されたこともあります。たまに実家に戻っても、まともに親の顔を見られません。それでも生きていくためにはしかたない選択だったんです」