稽古が厳しくて逃げ出した力士の話はよく聞くけれど、床山が逃げ出した話は初めて聞いた。しかし、部屋に戻った床蜂さんはそこから悔しさをバネにして修行に励み、18歳のとき初めて関取の大銀杏を結ったのが「朝日山部屋にいた琉王という力士で、その後、2年ぐらい結わせてもらってました」。
そうして徐々に腕を上げていき、ついに横綱の大銀杏を結うときがきた。それは、昭和の大横綱の北の湖。床蜂さんは20代半ばになっていた。
初めて横綱の大銀杏を結う
「北の湖さんの床山が、夏巡業のときに暑いからって酒飲みまくってベロンベロンになっちゃったんですよ。そのころ、北の湖さんのいた三保ケ関部屋には増位山、北天佑、播竜山など関取が多く、みんなで手分けしてやることになって、誰が誰をやるともめていたときに『ごちゃごちゃ言っとらんで、オレの頭、早くやらんかい!』と北の湖さんに指名されてやりました」
実は床蜂さん、横綱北の湖とは並々ならぬ縁があり、横綱に昇進する前には何度も“練習台”になってもらい、大銀杏を結わせてもらっていた。
「北の湖さんは両国中学の1こ上、兄貴のような存在でした。中学のときも北の湖さんが学校のそばのラーメン屋でおごってくれたり、いろいろ面倒みてもらっていたんです。いつも口を酸っぱくして『みんなに好かれる床山にならないと、仕事はとれないぞ。先輩面するな。常に新弟子の気持ちでやらないとダメだ』と言ってくれて、いま自分があるのは北の湖さんのおかげだと思ってます」
床蜂さん、生粋の職人肌ゆえに床山としての仕事に悩み、20代でもまた「辞めたい」と口にしたことがあったそう。そのときも北の湖が「床山に入った以上、床山であり続けろ」と怒鳴ってくれた。でも、実は遅刻魔で一緒にごはんを食べようと約束しても、いつも1時間は遅れてくる。「あれ? 時計がおかしいんじゃない?」なんて平気でとぼける。
巡業先から一緒に東京に戻ろうと誘われたけど、用事があるからと断ったら、そこから1週間も口をきいてくれない。それで床蜂さんがひとり、巡業先の旅館の食堂でごはんを食べていたらズンズンやって来て『なんでこんなところで食べてんだ? おい、誰か、章(床蜂さん)の飯をオレんとこに持ってけ』と自分の部屋に持って行かせ、それで仲直りしたとか。
横綱・北の湖は“憎らしいほど強い”と言われて一般的には怖いイメージのある相撲取りだけれど、素顔は照れ屋で優しい人だったという。床蜂さんいわく「面倒見のいい相撲バカ」なんだそう(こんな言葉、床蜂さんじゃなっきゃ言えません!)。
その北の湖、実は横綱白鵬のこともとても気にかけていた。床蜂さんいわく「二人は似たところが多い」そうで、北の湖もそう感じていたのかもしれない。
「北の湖さんが亡くなる少し前、高野山で横綱土俵入りがあったんです。そのときホテルの喫茶室で北の湖さんとコーヒーを飲んでいて『これからごはんでも行こうか』と話をしていたら、近くに座っていた白鵬が『自分も行っていいですか?』って言ってきてね。北の湖さんが『おまえが行くような店じゃないぞ』って笑って言いながら、居酒屋に一緒に行きました。
そのとき北の湖さんが白鵬に『横綱になったのは俺と同じ年ぐらいだろう? 今はいい。だけど、30歳になったらペースを落とせ。稽古のペースを落とせ。長くやるならペースを落として、場所中の外出も減らしていけ。場所中に食事に行こうなんて誘いは足を引っ張るだけと思え。俺は30になってひざやってダメになったけど、おまえはまだひざやってないだろう? 30越えると疲れがたまってあちこち故障も起こすからな』と、こんこんと話してくれたんです。
白鵬はそのとき29歳で、『年が明けたら30になります』と言っていて、北の湖さんは『29と30では違うから』って。自分は『横綱、よく聞いておいたほうがいいですよ』と言いました」
なんと……。白鵬V42の陰に北の湖あり、ではないか。横綱のことは横綱にしかわからないという。関西の小さな居酒屋で、偉大な横綱道がひそかに伝授された夜だった。