いたずらっ子で恥ずかしがり屋
トニーさんは1962年にガーナの首都アクラで生まれた。父は製粉の町工場を経営し、村長もしていたので、家には多くの人が出入りしていた。
門限は夕方6時、自分のことは自分でやるなど、しつけは厳しかった。母は専業主婦で、トニーさんは9人きょうだいの末っ子として、みんなに可愛がられた。
「私はいたずらっ子でしたね。よくキッチンに隠れていて、お母さんの姿が見えなくなると、つまみ食い(笑)。友達と話すのは苦手で恥ずかしがり屋。今の姿からは想像できないと、よく言われます」
町工場を警備するため、兄たちは会社敷地内にある寮で暮らしていた。トニーさんも12歳くらいからは自宅ではなく、兄たちと一緒に寝泊まりするようになった。
兄の影響でハマったのが、ジャッキー・チェンが主演するカンフー映画。忍者やサムライの映画も大好きで、格闘技をマスターし、スターになりたいと夢を抱いた。
学校の勉強では数学が好きで、高校卒業後に専門学校で機械工学を3年間学んだ。父の会社で数年働き、憧れの日本に来た。1990年、27歳のときだ。
「当時は中国の中に日本があると思ってた(笑)。日本はテクノロジーが進んでいるから自分の技術も生かせるし、空手や格闘技も習えるから一石二鳥と思って来たの。
成田空港に着いたら、みんなスーツだから、逆に驚いた(笑)。映画みたいに着物とかゲタの人がいない! しかもガーナは1年中、暑いのに何でこの国、寒いの?
ブルース・リーのまねをして、Tシャツの上はジャージの上下だけで来たから寒くて、ちょっと失敗したなと」
2か月ほど京都、大阪を観光して一度ガーナに戻り、翌年の冬に再び来日した。観光地で日本人のやさしい人柄に触れ、この国でもっといろいろ学んでみたいと思ったからだ。
日本で2週間ホームレスに
だが、旅行者としてではなく、日本で生活をしようとすると、苦難の連続だった。
「どこに行けば安く泊まれるのかわからない。言葉も通じない。雨の中移動して、池袋かな。大きな駅に着いたら、段ボールの中でみんな寝ていたから、私も(笑)。ホームレスだったのは、2週間くらいかな」
YMCAを見つけて巣鴨のゲストハウスを紹介してもらった。1部屋に3段ベッドが3つ。狭いが台所もあり、そこを根城に仕事を探した。
日本語のできないトニーさんは、知らないビルに飛び込んで手当たり次第にドアをノックして回ったが、「ノー、ノー」と断られてばかり。
道を聞こうとするとみんな逃げていく。トニーさんを見て、すれ違いざまに大回りして避けていく人もいた。電車で座っていると隣が空いていても誰も座らない。
「同じ人間なのになぜ? 何か、私、ついてるの? すごく傷つくよ。ナイフで切られるより痛い。ショックでごはんものどを通らない。
人の顔を見るのもイヤになっちゃって、黒い眼鏡をかけて、帽子を深くかぶって。全身真っ黒ですね。それで余計に、みんな怖がっちゃう(笑)」
'90年代初めは、黒人への偏見が今より強かった。当時知り合った黒人の友人の多くは帰国。ストレスで病気になった知人もいるという。
それでもトニーさんは踏みとどまった。