どん底を救ってくれた俳優への恩

 なぜかと聞くと、「切羽詰まってたから、パワーが出てきたの」と笑う。

 横で聞いていた妻の順子さんが言葉を足す。

「故郷に別れを告げて、簡単には帰らない覚悟で来て、言葉も何も通じないところで生きていかないといけない。だから、ハングリー精神を持てたというか、エネルギーが生まれたのだと思います

 それに主人が育ったアクラは港町でいろいろな国の人、違う宗教の人がいたそうです。そこで国際的な感覚を身につけて、海外に出たいと思ったのでしょう

 そういうベースがあったので、日本に来て自分からどんどん切り開いて、人とのつながりを作っていけたんじゃないかと

 数か月後。仕事を探して、大通り沿いの建物のドアをノックすると、「どうぞ」と入れてくれた。中は広い。何かの店のようだ。

アフリカの太鼓がいくつも用意されると、夢中で叩きはしゃぐ子の姿も
アフリカの太鼓がいくつも用意されると、夢中で叩きはしゃぐ子の姿も
【写真】子ども食堂のようす&ガーナに建設中の学校

「part time jobアルバイト」

 トニーさんが繰り返し訴えると飲み物を出してくれ、えらそうな男性が来た。英語の単語を交えて日本語で話しかけてくるが、よくわからない。

 明日もおいでと言われて翌日も訪ねる。6日目の土曜日に行くと、店内は一変。大勢のお客がいた。

 ステージにその男性が着物姿で登場して踊り始め、トニーさんはビックリしたこれが、鳴門洋二さんとの出会いだ。鳴門さんは主に、'60年代に映画やテレビで活躍した俳優だ

 鳴門さんはトニーさんのことを可愛がってくれ、森進一や美空ひばりの歌、黒田節や日本舞踊などいろいろ教えてくれた。トニーさんが歌詞を丸暗記して覚えると、舞台にも立たせてくれた。

「トニー、いつも同じ服着てるからと新しい服を買ってくれたり、お好み焼きも焼きそばもそこで覚えたし、お小遣いもくれた。

 日本に来たばかりで困っていた私を、彼が救ってくれたんです。本当に感謝してます。だから、私は日本が好きになったの

アフリカへの偏見をなくしたい

 仲よくなった日本人の友人の手助けもあり、英語学校で広報とマーケティングの仕事に就いた。やっと見つけた仕事を失いたくないと必死に働きながら、日本語学校に通い言葉を覚えた。

 '93年に日本ブリタニカに就職し、海外出張や研修もこなした。

「私が知らない日本人と話そうとしても逃げられちゃう。逆に近づいてくる人がいても、“アフリカではみんな木の上で寝ているの?”と聞かれたり(笑)。

 本当に日本人、アフリカのこと知らない。だったら、アフリカの文化を紹介しなくちゃと思って