時代が戦争に突入する中、京都出身でいつも丸髷に和装だった母も、短髪にしてモンペ姿となった。横須賀に軍艦が着くと、慰問で日本舞踊を踊りに行った。
「ケガをして白い着物を着た兵隊さんたちの前で一生懸命踊ったんです」
戦況が激しさを増すと、学童疎開で富山県のお寺に預けられた。
「疎開先も食べ物はなかったの。着ていたセーターをほどいて赤ちゃんの靴下を編んで、農家でゆでたジャガイモと換えてもらったことがあるわ。みんなで分けて食べたの。そういう苦労をしたから、今何を食べてもありがたいと思えるのね」
玉音放送はよく聴き取れなかったが、日本が負けたことは教師の涙で知った。生徒たちは家に帰れるのがうれしくて、翌日から親の迎えをひたすら待ったという。
「サルみたいに虱(しらみ)をつぶし合いながら、みんなでお寺の門をじっと眺めていたの」
父親が来てくれたときは、遠くからでもすぐにわかった。
「“あ、お父さんだ!”なんて言ったらみんなに悪いから、トイレに駆け込んで、先生に呼ばれるまでじっと待っていたの。どれだけ苦労をして父が切符を手に入れてくれたか……それを思うと今でも胸に込み上げるものがあります」
混み合う汽車の中で住職が持たせてくれた握り飯を食べていると、隣にいた兵隊に「砂糖と交換してほしい」と頼まれた。久々に砂糖を舐めたときのうれしさも記憶に残っている。
一方、気がかりなことが起きていた。戦中、父は政府からの命令で、所有していた岡山県の山で鉄を採掘していた。しかし鉄を納めた3日後に終戦となり、財産を抵当に入れて投資した資金が回収できなくなっていたのだ。
「政府の人たちは戦犯として牢屋に入れられて、お金は戻ってこなかった。お父さんは頭がいっぺんに白くなってしまったわ。終戦で家が空っぽになっちゃったの。その3年後に父は亡くなりました」
ダンサーへの道、そして結婚
12歳になっていたカオリさんは、一家の暮らしを支えるために進駐軍慰問ショーのメンバーになり、タップダンスを踊るようになる。
「踊りが大好きだったし、働くのは苦にならなかった。スポットライトを浴びてステージに立つことが快感になって、子ども心に“この道で生きていこう!”と決めたの」
衣装は母が帯やお祭りの紅白の幕などを使って、工夫してつくってくれた。カオリさんは慰問先で初めてハンバーガーを食べたとき、あまりのおいしさに、母にあげたいと持ち帰ったことがある。
「でも、もうひと口と食べているうちに止まらなくなって。残った最後のひとかけらを母は喜んで食べてくれました。でもハンバーグってずいぶん長細いものなのねと(笑)」
その後、バレエやジャズダンス、アクロバットを習得し、20歳でソロダンサーに。まもなくボードビル・ショーの牙城、浅草新世界でトップダンサーとして踊るようになる。
24歳のとき、日本文化使節団の一員に選ばれ、イスラエルからヨーロッパを回った。