いつの間にか360時間以上の仕事をこなし、全米メイクアップ・アーティスト・ユニオンに入る資格が得られていた。'78年、45歳のときに日本人として初めて同ユニオンの正会員となる。
「最初は、表舞台にいた私がどうして裏方の仕事をしなきゃいけないの? って、いやいやだったの」
しかしジュリー・アンドリュースから「あなたに塗ってもらうときがいちばんリラックスできるの。またお願いね」と言われたとき、
「“サムバディ ニーズ ミー”私を必要としてくれてる人がいると思ったら、考えが変わってきて、どうせやるなら1番になってやる! と思うようになったのよ」
通常ボディメイクはスポンジを使って行うが、カオリさんはそれを手でのばすように塗った。そのほうがきれいに仕上がり、スターたちにとっても、マッサージのようで疲れがとれると評判だったのだ。次第に「ボディメイクのカオリ」と呼ばれるようになる。
メイクが支える映画の撮影現場
カオリさんのボディメイクの技術を世に知らしめたのが、エイドリアン・ライン監督の『フラッシュダンス』。この作品には主役のジェニファー・ビールスに似た体形の4人のダンサーが吹き替え役として参加していた。カオリさんは彼らをジェニファーと同じ浅黒い肌に塗り、1人が演じているように「化かした」。
「中には透き通るような白い肌のフランス人ダンサーもいたし、男性のアクロバットダンサーもいたの。ダンスで汗をかくとボディメイクが落ちてしまうし、カットによって少しでも色が違ったらアウトだから、こちらも汗びっしょりになって、刷毛を握って格闘したわ」
いちばん大変だったのは、ダンスをしながらヒロインが水をかぶるシーン。
「1回、2回じゃなくて、1日中あれやってるんだから! そのたびにタオルでふいてまた塗ってと。でもあれがいい場面になったのよね。忙しかったけど、やりがいのある現場だったわ。毎日いいダンスが見られたのも楽しかった」
カオリさんのテクニックが躍動感のあるダンスシーンに輝きを加えた。この映画を機にヘア&メイクと並んで、ボディメイクの名前がクレジット・タイトルに出るようになる。
カオリさんはボディメイクの仕事が終わると、スターたちのトレーラーでフェイスメイクのトップアーティストたちの仕事ぶりを見て、そのテクニックを吸収していった。フェイスメイクの資格も取り、ボディメイクで親交を深めたスターたちからは「フェイスもカオリで」という指名が増えていく。
メイク以外の仕事では、日本のタレントの米国公演のプロデュースに携わった。'79年、ピンク・レディーがアメリカに進出し、4大ネットワークのひとつのNBCで冠番組を持ったときもサポート役を務めた。その縁でピンク・レディーの増田惠子さんからはアメリカの母と慕われる。
「当時は台本も日本と中国の違いがなく書かれていて、私たちの雰囲気もチャイニーズのように演出されていたんです。日本を誤って伝えられるのはいやだとミーと困っていると、カオリさんが上手にプロデューサーに掛け合ってくださったりして。心強かったですね」(増田さん、以下同)
司会者やゲストと水着姿の2人が入浴するシーンがあり、日本では「ピンク・レディーがこんなことをやらされている」と揶揄されることもあった。
「そんなときも、“日本の女の子がゴールデンタイムでレギュラー番組をやってるなんて、日系の方たちの大きな励みになっているのよ、自信を持って頑張ってね!”と励ましてくださったんです」
増田はピンク・レディー解散後もことあるごとにカオリさんを訪ね、交流を重ねた。
「カオリさんのところにはいつも居候の子たちがいたんです。向こうで勉強したいという若者や困っている人の面倒を見ていたんですね。
ビルさんとカオリさんは本当に仲のいいご夫妻でしたから、ビルさんが亡くなったときは、私もつらかったです」