「描き始めたころは、“漫画好きの人が読んでくれたらいいな”ぐらいに思っていたので……。こんなにたくさんの人に読んでもらえているのは、うれしい反面、不思議な気もしています」

 はにかむようにして肩をすぼめると、華奢な身体がいっそう小さく見えた。

大家さんに出会っていなかったら

 お笑いコンビ『カラテカ』の矢部太郎(42)。その小柄な体格を活かして、という表現が正しいのかわからないが、ペットボトルロケットで飛ばされるなど、バラエティー番組の奇抜な企画で見かけたことがある人もいるだろう。

 いや、もしかしたら、芸人としての顔より“漫画家”としての彼に興味がある人のほうが多いのかもしれない。自身が住む家の大家さんとの交流をもとにして描いた漫画『大家さんと僕』が大ヒットを記録したからだ。心温まるストーリーと味のある絵の虜(とりこ)になる読者が続出し、シリーズ累計で110万部を突破している。編集担当を務めた新潮社の武政桃永さん(37)が語る。

「ファンレターがこれほど毎日のように届く作品は初めてです。読者が小学生から80代の方まで幅広いというのも珍しい。“矢部さんのことを応援したくなった”というコメントも多く寄せられました」

大家さんが祝ってくれた誕生日。1年目はおはぎにろうそくをさした漫画を描いた。(c)矢部太郎/新潮社
大家さんが祝ってくれた誕生日。1年目はおはぎにろうそくをさした漫画を描いた。(c)矢部太郎/新潮社

 生活できるだけの仕事はあったが、誰もが知る売れっ子とは言い難い。もう若手といえる年齢ではなく、次々とブレイクしていく後輩芸人たちを横目で見送る。そんな彼の日々を変えたのが大家さんとの出会いだったのだ。

 変化したのは、矢部の知名度だけではない。彼自身の価値観も、大家さんとの交流を通じて大きく変わっていった。

「大家さんに出会っていなかったら、今ごろどうなっていたんでしょうね……。小さな部屋でひとり、なんとなく毎日を送り、“幸せ”の本当の意味も知らずに過ごしていたのかもしれません」

 かなりの人見知りなのだろう。視線は、常に目の前のテーブルに落とされている。それでも、彼がポツリポツリとつぶやく言葉には、なぜかこちらを圧倒する重みがあった。

「最近、思うんですよ。今までやってきたことは無駄じゃなかったなって。全部が今につながっているんだなって」

 大家さんと出会ったことも、漫画を描いたことも、すべては偶然ではなく、必然だった─。彼の口から語られた半生には、そう思わされるだけの“何か”があった。