入江慎也との出会いと『電波少年』

 学校が終わるとすぐに帰宅し、読書や音楽を聴いて過ごす日々。ところが、高校での出会いを機に、矢部の人生は思わぬ方向へ転がりだした。

 進学した高校では、矢部いわく「高校デビューに成功」し、学校生活をエンジョイする。たくさんできた友達のひとりが『カラテカ』の相方である入江慎也だった。

 その入江からの誘いで、2人は文化祭でコントを披露することになる。初舞台で2人が披露したのは、お笑いコンビ『バカルディ』(現『さまぁ~ず』)のコントをそのまま演じる、まさかのコピーコント。観客には大ウケだった。その反応に気をよくした入江が、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』のオーディションに応募。意気揚々と会場に向かったが、審査員席にビートたけしとダンカンが座っているのを見た2人は、焦ったという。

「僕らには文化祭のときのコピーコントしか持ちネタがなかったけれど、明らかにコピーをやれるような雰囲気じゃなくて。即興でショートコントを考えましたが、全然ウケなかった。“これしかネタがない”と正直に話したら、“それでここに来たのはある意味すごいな”とたけしさんに言われたのを覚えています

 高校卒業後は東京学芸大学に進学。学費を賄うためにアルバイトに精を出す日々が続いた。

「お笑いは趣味ぐらいのつもりだったんですが、入江君はやる気満々で、気づいたらだんだんライブに出られるようになっていました。まあ、ネタはあんまり受けなかったんですけどね(笑)」

 20代前半にして大きなチャンスが訪れる。当時、爆発的な人気を誇っていたバラエティー番組『進ぬ!電波少年』を機に、彼の存在は世間に知れ渡ることになったのだ。

「『電波少年』のオーディションを受けてしばらく後、マネージャーさんにお使いを頼まれて新宿の路上を歩いていたら突然、番組プロデューサーに担がれて。そのままアパートに連れていかれて企画がスタートしました」

 矢部は、『電波少年』の企画「アフリカ人を笑わしに行こう」の始まりをこう振り返る。これは、コントで現地の人を笑わせるという企画。当時、プロデューサーを務めていた土屋敏男さん(63)は、矢部を起用した理由を次のように語る。

「正直、オーディションでの矢部のことは全然覚えていないんですよ。じゃあ、なんで彼を選んだのかというと、芸人の中でいちばん軽そうだから、担ぐのがラクかなって(笑)」

 番組が用意したアパートで暮らし、3か月間ひたすらスワヒリ語の勉強を続けた。食事前には、現地の人から会話クイズを出題され、不正解だと食事にありつけない。まさに牢獄のような環境で、普通ならば逃げ出したくなりそうだが、矢部は苦痛を感じなかった。

「ひとりで黙々と勉強するのが性に合っていたんでしょうね。この企画はシリーズ化されて、モンゴル語、韓国語、コイサンマン語、アラビア語など計8か国語を勉強しました。一生続けてもいいなと思ったぐらいです」

 とはいえ、なかなか過酷な経験もあったようだ。モンゴル人の一家がホームステイしていたときには、こんなことが……。

「モンゴルの人は暑がりで、エアコンの設定温度を18度まで下げるんですよ。僕は寒がりだから、つらかったですね。食事はモンゴル人のお母さんが作ってくれたんですが、スーパーに行っても自分たちがなじみのある食料しか買わない。だから、毎日じゃがいも、にんじん、小麦粉、肉類を使った料理の繰り返しで。さすがに飽きてきました」

 放送終了後、矢部はモンゴルにその一家を訪ね、2週間彼らの家に滞在している。

「一緒に生活しているうちに、エアコンの温度を下げるわけも、同じ食材を食べ続ける理由もわかる気がしたんですよ。異文化の人とのコミュニケーションには、新たな発見を与えてくれる楽しさがあることを知りました」