15時に現物を受け取って2時間後には修理したものを渡さなければいけない。第2製造部や研究室で培った技術を駆使してアウトソールを剥がして底を取り換え、インソールを剥がして衝撃吸収材を入れ、糊で貼りつけた。会社には接着器があるから、さまざまな素材をすぐ貼りつけられるが、バルセロナにはない。目の前にあるハンマーで打ったり、体重をかけながら強引に接着し、太陽光のある場所に置いて乾かし、本人に渡したという。

 有森は率直な思いを明かす。

「修理してもらったものをはいたら“イケる”と直感的に思いました。シューズを信じられなかったら、42・195kmは走れない。三村さんがいなかったらたぶんシューズもダメで、本番を迎えられなかったと思います」

スポーツシューズ職人『M.Lab』三村仁司さん 撮影/齋藤周造
スポーツシューズ職人『M.Lab』三村仁司さん 撮影/齋藤周造
【写真】瀬古選手の練習に付き合う三村さん、高橋尚子さんとの食事会ほか

彼女の走りを見て、自然と流れた涙

 迎えた当日。三村は自らがシューズ製作を手がけた有森、山下佐知子らのスタートを見守り、その足でバルセロナのオリンピックスタジアムに向かった。到着後、電光掲示板に映し出されていたのは、有森とワレンティナ・エゴロワがモンジュイックの丘でデッドヒートを繰り広げている姿。4日前の状態を考えれば10km前後で棄権していてもおかしくないと考えていた彼女の渾身の走りを目の当たりにして、自然と涙がこぼれ落ちた。

「数々のランナーやアスリートと付き合ってきたけど、泣いたのはあのときが最初で最後。感動のあまり胸が詰まって言葉も出ませんでした。最後に振り切られて金メダルはとれなかったけど、本当によく戦ったと思います」

 有森が'96年アトランタ五輪で連続メダルを獲得した際のシューズも三村が手がけたもの。ただ、このときはもうひとりのメダル候補・浅利純子にかかりきりで、有森のフォローはほとんどしていないという。

 その浅利が足のマメで血だらけになり、17位に惨敗したことで三村は窮地に立たされた。浅利は日ごろから靴下をはいて走っていたが、「この靴は靴下をはかなくても走れる」という三村のひと言に左右されたのか、素足で本番に臨む決断をしたのである。

 これについて何人ものランナーが「普段自分がやっていないことを五輪の大舞台で実行するなんて信じられない」と疑問視したが、所属先のダイハツ・鈴木従道監督は「靴のせいで負けた」と真っ向から批判。翌日には契約メーカーを変えるという大胆行動に出た。事業部長にもクレームが入り、直接の担当者である三村も叱責される事態になったのだ。

「マラソンランナーというのは繊細なもので、練習と全く同じ状態で今までどおりのシューズで走ってもマメができることはありえます。そのすべてを靴のせいにされるのは、やはり腑に落ちないところがありました。人間、感情的になって行きすぎる言動をとってしまうこともあるし、私もメーカーの担当として言われるのもしかたない部分は否めなかった。割り切るしかなかったですね」

 ロス五輪のときにも増田明美(解説者)が惨敗したことで「不調は本番前夜の怪電話のせい。“それはライバルの佐々木をサポートしていた三村だ”と話した関係者がいた」と週刊誌に報じられ、嫌疑をかけられたことがあったが、浅利の事件はそれ以上にショッキングなものだったという。

 それでも、妻・美智子さんが「その話は知りませんでした」と言うほど、彼は家族に心配をかけまいと苦境を一切話さなかった。そうやって自らの仕事に邁進できたのは、信じてくれる数多くの選手の存在があったから。会社も別部署に異動させなかった。30年近い靴職人人生でそれだけ絶大な信頼を勝ち得ていたのである。

 だからこそ、2000年シドニー五輪でも、2004年アテネ五輪でも金メダリストの靴作りを任され、高橋尚子と野口みずきが結果を出した。