高橋にとって三村は「憧れの靴職人」だったという。

「'97年のアテネの世陸に5000mで出たときは、まだ三村さんにシューズを作ってもらえる立場じゃなかったです。この大会の女子マラソンで優勝した先輩・鈴木博美さんの担当をされていたので、“私にも作ってください”とお願いしたら“強くなったらな”と返されたのが印象的でしたね(笑)

辞表を用意して作った高橋尚子の靴

 シドニー代表権を獲得してからは、合計50足の試作品が届けられた。会社の担当者が現地の路面やコース設定、気象条件などを徹底調査し、それを踏まえて三村が少しずつ長さや強度、素材を変えながらひとつひとつ手作りしたシューズを高橋は日々の練習で心を込めてはき、本番1週間前に4足まで絞り込んだ。最終的にはフィット感のいい白と赤のラインのシューズを選んだが、三村が「絶対にこれがいい」と強く推したものでもあった。

 実はこの1足には、靴職人としての強い覚悟と決意が込められていたという。

「高橋は左足が1cm長くて、大会前の体重変動も大きいんで、感触が変わりやすい選手。最も多くの試作品を渡した選手だといっても過言ではなかった。本番2か月前の7月にボルダーに行ったときに“靴、どうや”と聞いたら“最高ですよ”と笑顔で返してきたのに、“でも本番はやっぱり左右同じ厚さにしてほしい”と言い出したもんやから、正直、面食らいましたね。

 40~50分議論したけど“左右は全く同じじゃないと前向きな気持ちで走れない”と一歩も引かず、困り果てました。“お前の言うとおりにしたるわ”と言って会社に戻ったものの、どうしても妥協できなかった。辞表を書いて机にしのばせて、左右のインソールの厚さが数ミリ違う靴を作り、本人に渡すことにしたんです

 この事実を小出監督が知っていたらストップをかけていたかもしれない。三村はそれを承知で監督にも高橋本人にも黙って靴を渡した。結果的にそれが最高の走りを引き出し、金メダルをもたらした。ゴール地点で待ち構えていた三村が渡した国旗で彼女がウイニングランをしたことが、最高の思い出になったという。

「三村さんがプロ魂を込めて作ってくださったから、私もそれを選んだと思います」と高橋は力を込める。日本女子マラソン界初の快挙は彼女と小出監督の不断の努力、そして三村さんらスタッフのプロフェッショナルらしいサポートによって生まれたのだ。

優勝した翌年、焼き肉店で高橋と食事会を開いた
優勝した翌年、焼き肉店で高橋と食事会を開いた
【写真】瀬古選手の練習に付き合う三村さん、高橋尚子さんとの食事会ほか

 2004年のアテネで野口みずきが金メダルを獲得した5年後の2009年、三村はアシックスを定年退職し、M.Labの設立に踏み切る。自らが代表取締役、同じくアシックス勤務だった長男・修司さんが常務取締役にそれぞれ就任して約10人体制でスタート。2010年1月からアディダスジャパンと専属アドバイザー契約を締結し、ヤクルトの青木宣親や香川真司など他競技のトップアスリートのシューズも担当する機会に恵まれた。

 妻・美智子さんは「この年齢からまた事業を始めるの?」と不安に思ったが、息子夫婦を含めた家族会議で本人たちが「やりたい」と話すのを聞いて「頑張ってください」と後押しする言葉をかけたという。

 三村は当時の思いを打ち明ける。

「ありがたいことに退職前からいくつかの会社に“うちでアドバイザー契約を”と声をかけてもらい、行けるところまで行ったらええやんという気持ちになって会社を作ったんです。最初借りたのは600坪もある建物。アディダスと意見を交換しながらいい仕事ができて、まずまず順調な滑り出しでした」