上村さんの弟・健吉さん(86)によると、会社の3畳ほどを岩沢さんに貸したという。
「兄は、まじめな性格の岩沢さんが好きだったんです。のちに、うちの工場の敷地が空いているので、プレハブを建てたらとすすめた。それがいまのイワコーのスタートです」
当時のノートをいまも大事にしている岩沢さんが、興奮ぎみにこう語る。
「上村さんがいなければ、いまのイワコーはなかったです。恩人です。“受けた恩は石に刻め、かけた情けは水に流せ”。これを学びました」
業績のアップダウンは家計を直撃
上村さんに背中を押される形で立ち上げた「岩沢工業」は、さっそく動き始める。
'60年代に《ゾウが踏んでも壊れない》というキャッチコピーで、プラスチック筆箱が大ブームとなったが、'68年当時も人気は衰えていなかった。岩沢さんはそれにあやかるように、プラスチック筆箱を企画。生産設備はないため、外部の工場に発注して作ってもらった。
これが売れた。しかしブームに陰りはつきもの。2年後には売れなくなり、ビニール製でファスナーやマグネットを使ったペンケースにかわってしまうのである。
次なる商品を考えなければ……と思っていたとき、スーパーの店先を借りて営業する文具店で、ある商品が目にとまった。
「シャープペンのノック部分に消しゴムがついていたんです。これだ、と思ったわけ。“プラスチック製の鉛筆キャップを作って、そこに消しゴムをつけたらどうだろう”と。そうして消しゴム付き鉛筆キャップができたんです」
岩沢さんと消しゴムとの出会いである。
'75年に発売されると、1日6万本作っても、店頭に並べる先から売れていった。ところが5年後にはまた売れなくなる。生き馬の目を抜く社会の常だが、同じ物を作るライバル会社が現れたのだ。
イワコーの歴史をたどると、新製品ができてしばらくは売れても飽きられる、あるいは他社にまねされて売れなくなる─ということを繰り返した。鉛筆キャップから消しゴムだけ取り出して売ったり、おみくじ付きの鉛筆キャップを販売したりもしたが、どれもやがて売れなくなった。
業績のアップダウンは、岩沢家の家計を直撃した。
イワコーの現社長で、長男の岩沢努さん(53)は、「ずっとお金がないと言われていたので、そういうもんだと思い込んでいた」と言う。
「外食はほとんどしなかったし、2~3日に1回行く銭湯で月に1回買ってもらうコーヒー牛乳がぜいたくでした」
趣味はなく、酒も飲まず、仕事ひと筋。時間があれば職場の掃除をするキレイ好き。努社長によれば、父親は家で仕事の話はするものの、業績が悪くなったときも表情に出さなかった。