大ヒット商品「消しゴム付き鉛筆キャップ」が売れなくなった衝撃は大きく、会社が傾きそうになる。そこには取引先の裏切りもあったという。
「消しゴム付き鉛筆キャップのプラチック部品の製作を頼んでいた協力工場が、同じような商品を作って、イワコーよりも大きな会社に売ってしまったんですよ。ふざけるなと思ってね。それで、自分の工場をつくらなければと考えたわけです」
分割払いで機械を買ったが、使ってみると、そこは初心者の哀しさ、うまく使いこなせない。最初の1年は不良品の山ができた。それでも「なにくそ!」と発奮し、次なる商品を死にもの狂いで考えた。そんな中で生まれたのが、野菜の消しゴムだった。'88年のことだ。
「消しゴムメーカーは当時10社以上あったんですが、四角いものばかり。うちのような後発メーカーが同じものを作っても勝負にならない。ふとひらめいたのが野菜でした。子どものとき住んだ千葉の親戚は農家だったし、野菜なら誰でも食べると思ったからね」
約10年間の寝袋生活
しかし、どの卸にも見向きもされなかった。イワコーの消しゴムは合成ゴム製で87・7%消える正真正銘の消しゴムなのだが、「消えない消しゴムはいらない」と門前払い。
原因は、少し前から流行っていたキャラクターフィギュア。もともと消しゴムではないのだが、やわらかい素材だったことから“消しゴム”という認識が広まり、“複雑な形をした消しゴムは消えない”と、とばっちりを受けたのだ。
定規などの文具を作りながら急場をしのでいたら、'93年、ある問屋から、
「以前作っていた野菜消しゴムの金型あるでしょ。あれでもう1度作ってよ」
と言われた。
「5年前、大きな失敗をしたからやめたほうがいい」
と忠告するが、大丈夫だと言う。そこまで言うのならと、失敗してもダメージが少ない量を生産してみた。すると驚くほどの注文が舞い込んだ。結果、'97年には6億円強の売り上げを記録。イワコーは息を吹き返したのである。
ところが、である。売れるようになるとすぐに競合会社が現れ、いつものつぶし合いが始まる。競合の2社は倒産し、イワコーもダメかという観測が広がった。
ただ、売れなくなったとはいえ、ニーズがなくなったわけではなかった。作る会社はイワコー1社になったので、24時間態勢で機械を稼働させることに。夜中、機械が正常に動いているかが心配なので、岩沢さんは工場に泊まり込む生活を強いられた。
「機械がわからないアルバイトの人だと対応できないから、私自身が寝袋を持ち込んで、ピピッと警報音が鳴るとすぐ起きて対応するわけです。1か月のうち半分は寝袋生活。それが約10年続きました」
そうして危機を脱出。経営は徐々に上向いていく。
何度もピンチを迎えては、そのたびにそれを切り抜けてきた。たくさんの人の支援があったからなのだが、その呼び水となったのが、「正直さ」だったという。