1983年、横浜市に生まれた安田さんは、サラリーマンの父と専業主婦の母、弟の4人家族。物心ついたころから“ドンくさい子”で、いつもバカにされていたという。
「極端に運動が苦手で、走るのも泳ぐのもまるでダメ。手先も不器用で、工作が教室に展示されるのが恥ずかしくて、こっそり家に持ち帰ったり。また、大きな音が苦手で、花火の音がとても怖かった。大人になってからわかったことですが、僕には軽度の発達障害があり、すべてはその特性によるものだったのだと思います」
猛勉強の理由は「この家を出たい」
今でこそ広く認知されているが、当時の日本では発達障害の存在はあまり知られておらず、子どもだった安田さんは「どうして僕だけが……」と苦しみ続けた。
「場の空気を読むのが苦手で、感じたことをそのまま言ってしまったり、集中すると周りの声が聞こえなくなることもあって“話しかけたのに無視された”などと、ささいなことでいじめられました」
しかし、安田さんにとっていじめよりも苦しかったのは、家庭にも安らげる場所がなかったことだった。
「父は感情の起伏が激しく、突然キレて僕や母に暴力をふるい、しまいには外に家庭をつくって家に寄りつかなくなりました。母は優しい人でしたが、父の暴力や不倫によって精神的に不安定になっていたのでしょう。そのうち、夜中まで家を空けることが増えていきました」
弟とともに、深夜まで母を待つ日々。小学校高学年になると、安田少年は「この家を出たい」と考えるようになる。勉強を重ね、千葉県内にある偏差値40台の全寮制私立中学に特待生で合格。新たな生活が始まったが、ここにも居場所を見つけることはできなかった。
「厳格に生徒を管理する中学で、特待生だった僕は学校の実績を上げるため難関大学に合格することを求められました。その息苦しさに加えて、友人関係もうまくいかなかった。寮の8人部屋で陰口をたたかれ、悔しさと悲しさで眠れず、日中、眠気で授業が頭に入らなくなったんです」
入学時トップだった成績は、中学2年の終わりにはビリから5番目に転落。学校を退学し、祖父母が住む神奈川県藤沢市の中学校に転入することになった。
「そのころ、両親はすでに離婚しており、父と折り合いが悪かった弟は母と暮らすことになりました。僕まで母についていったら経済的な負担をかけてしまう。それに2人とも母についたら、父が悪者みたいになってしまう気がしたんですよ。そこで父方の祖父母に預けられることになったんです」
不良っぽく見せればいじめられないのではないかと考えて髪を染め、次第に本物の不良少年らと夜のコンビニにたむろするようになる。卒業後は地域で偏差値が下から3番目の県立高校に進学したが、勉強には身が入らなかった。
「心が弱いのを隠すように、見た目を派手にして周りをにらむように歩いていました。そのうち地元の暴走族に目をつけられ、リンチにあったことも。後で警察官に聞いたら、加害者も、親が蒸発して建設現場で働きながら妹を養っていたそうです。なぜ社会の弱者同士が苦しめ合わないといけないのか……。むなしさと絶望感でいっぱいでした」