行きつけの寿司屋で話を聞くと

「監督が初めていらっしゃったのは'04年です。奥さんも連れて、週に1回は来店されていました。家族ぐるみでお付き合いさせてもらいましたね」(『鮨太鼓』のスタッフ)

“指定席”があり、必ずカウンター席のいちばん奥の端に座ったという。

「この席じゃないと“雰囲気的においしくない”なんて言うんですよ。だから監督が来ると聞くと、常連客は“野村シフト”をしいて、監督の席を空けておくんです。監督は“気を遣われるのではなく、気を遣う側がいい”と言っていましたが、周りはいつも気を遣っていました(笑)」(常連客)

 甘いものが好きで、メニューにない小豆入りパフェが用意されていたそう。家に帰ってからすぐ寝られるように、食後のコーヒーも飲んでいった。ニューオータニの1000円以上もするコーヒーより、ここで飲むブレンドがとにかくお気に入りだったという。

監督はいつも最後のお客さんが帰られるまで待つんです。閉店時間は夜の11時くらいですが、営業が終わった後にお店のみんなと遅くまでおしゃべりをしたものです。監督の話を聞いたりバカ話をしたり……」(スタッフ、以下同)

 夜9時に大阪から電話をかけ、深夜12時過ぎに来店したこともあった。野村さんにとって居心地のいい場所だったのだろうが、別の理由も。

後列が世志と野村さん。前列が浅香光代と沙知代さん。20年ほど前、まだ仲がよかったころに撮影
後列が世志と野村さん。前列が浅香光代と沙知代さん。20年ほど前、まだ仲がよかったころに撮影
【写真】ミッチー夫妻&サッチー夫妻の貴重なフォーショット

沙知代さんが亡くなった直後は、監督は怒っていたんですよ。“先に逝くなと約束したのに俺を置いていくなんて……”と言って。愛情が深かったからこそ、腹も立ったのでしょうね。

 でも時間がたつと、だんだん“寂しい”と口にすることが増えました。“家に帰ってもひとりだから寂しいんだよなぁ……”と言って、いつも帰宅するのを名残惜しそうにしていましたね

 最後の来店は、1月23日。

「あの日も夜中の12時までいつものように過ごされました。たまたま女将がお休みだったので、“大丈夫か?”と気遣ってくれました。毎週のように来店されていたので、突然の訃報を聞いてびっくりです」

 沙知代さんの死後はライフスタイルがすっかり夜型になっていた。

「奥さんが亡くなった直後に偶然、銀座のバーで野村さんと飲む機会がありました。初めてお会いしたのですが、私は楽天の選手に知人がいたので、選手の話で盛り上がりました。

 すると突然、監督が“なぜ沙知代を選んだかわかるか?”と聞くんです。答えはびっくり。“おっぱい”だって言うんですよ。“僕は生まれが貧しかったから、小さいころの楽しみといったらお母さんのおっぱいを触ることくらいで、沙知代のおっぱいは母と同じだった”って冗談っぽく話してくれて(笑)」(飲食店経営者)

 今ごろはきっと、サッチー節を笑顔で聞きながら、やっぱりボヤいているに違いない。