徳光 僕はバツイチなんですが、妻と別れるときに「あなたといても未来が見えない」と言われてしまいました。浮気こそしませんでしたが、彼女を「いて当たり前の存在」と思ってしまい、労(いたわ)れていなかったと今では反省しています。結婚生活では、男と女が理解を深める難しさを知りました。

原田 そう、男って女性の気持ちが本当にわからないんですよね……。まったく別の生き物だから、同じ道を歩くのは本当に大変。

徳光 女性のほうが圧倒的に賢いですしね。

原田 僕が「女性には一生かなわない」と思ったのは、妻の出産に立ち会ったときです。出産に命をかける妻に対してリスペクトの気持ちが湧き上がり、「出産はロックンロールだ!」と感動しました。それから、彼女は僕の中で神のような存在になったんです。でも今は、その神を裏切ってしまったのが、僕の人生最大の反省点になってしまいました……。

徳光 アハハ! いやあ、天罰も下ったけど原田さんはすぐに真摯に謝罪していたので、不倫スキャンダルと一線を画していると思いますよ。

原田 そうなんですかね……。今は、いただいた仕事に全力で取り組むしかないぞ、と自分に喝を入れながら働いています。でも、これを機に妻への思いはより強固なものになりました。一生、神にひれ伏して生きていきます。

父が倒れたことで考えが変化

徳光 くしくも、文春砲がきっかけになったんですね。そういう意味だと、僕は父親の大きな背中に長い間、抗(あらが)っていたことを反省しています。今でこそ、親父の七光を全身で浴びていますが、10代、20代のころは親に反抗してたんです。親父への反抗心から30代前半まで定職に就かず、地元出身の大スターであるサザンオールスターズの記録を塗り替えるために、バンドで音楽ばかりやっていました(笑)。

原田 また大きな野望ですね(笑)。その考えが変わったのはなぜ?

徳光 親父が心筋梗塞で倒れたのが大きいですね。親父を見舞った病院の帰りに、母がポツリと「お父さん、このまま死なせたらかわいそうよね」と言ったんです。母の言葉を聞いて「たしかにそうだな」と。僕たち家族の生活のために、働き続けた親父がここで命を落とすのはかわいそうだ、と思ったんです。そのとき初めて、やりたい、やりたくないじゃなくて「自分のやれることをやろう」と思えたんですよね。

原田 そうだったんですね……。僕もお父様が司会をしていた『ウルルン滞在記』でとてもお世話になったので、倒れられたときはすごく気がかりでした。

徳光 そのタイミングで、ある人から「徳光和夫さんの人生はおもしろいから、1冊の本にしてみよう」と言われて、手探りで親父のエッセイを書いてみたんです。本の下書きを幻冬舎の見城徹社長に見せたら興味を持っていただいて、親父を題材にした『せんえつですが……。徳光和夫の日常』(幻冬舎)を出版できました。初めて印税が入ったときにやっと親孝行ができる、と感激しました。

原田 お父様も喜ばれたでしょうね。

徳光 はい。今では親父の波に乗りまくってます。本物の波には乗れませんが、若いころの自分には「抗うな、波に乗れ」と言いたいです(笑)。

原田 茅ヶ崎ボーイでも、波に乗らないんですね。徳光さんを、正真正銘の陸(おか)サーファーに認定します!

徳光 ありがとうございます!

本日の、反省
 妻や義兄から徳光さんの話を聞いていたので、1度ひざを突き合わせてお話ししたいと思っていたんです。僕からしたら、徳光さんには反省すべきところはないように思えますが、ご本人は人知れず悩んでいたんですね。育ちのよさはもちろん、根はまじめで人に愛される魅力を持っている方だと感じました。今があるのは徳光さんのご人徳ですよね。老後は、茅ヶ崎に移り住んで、徳光さんとさらに深いご縁を結びたいです!


はらだ・りゅうじ 1970年、東京都生まれ。第3回ジュノン・スーパーボーイ・コンテストで準グランプリを受賞後、トレンディードラマから時代劇などさまざまな作品に出演。現在は俳優業にとどまらず、バラエティーや旅番組に多く出演し、活躍の幅を広げる。芸能界きっての温泉通、座敷わらしなどのUMA探索好きとしても知られている。

とくみつ・まさゆき 1971年、神奈川県生まれ。フリーアナウンサー・徳光和夫の次男。日本大学芸術学部音楽学科卒業。タレント・キャスターとして活躍する傍ら、今も父からお年玉をもらう“クズ二世タレント”としてもブレイク。父親譲りの毒舌を武器にYouTube「徳光ちゃんねる」でも活躍中。

取材・文/大貫未来(清談社)