「仲間たちが次々評価されていって、“このままじゃ自分だけ取り残されてしまう……”と相葉さんはすごく悩んでいたそうで。それを志村さん、わかっていたんですよね。相葉さんに対しては自分の息子と接するような優しさがありましたから」(前出・テレビ局関係者)

「企画に自分で納得したのなら、たとえ出来が悪かったとしても、ディレクターのせいにしちゃいけない」ともアドバイスされたという相葉(『天才!志村どうぶつ園』より)
「企画に自分で納得したのなら、たとえ出来が悪かったとしても、ディレクターのせいにしちゃいけない」ともアドバイスされたという相葉(『天才!志村どうぶつ園』より)
【写真】麻布十番や六本木で“志村ガールズ”に囲まれてご満悦

「焦るんじゃないよ」─志村さんの言葉の奥底には、若かりしころ、自身が味わった苦い経験があった。

「6年間の付き人生活を終えて、24歳でドリフのメンバーとして舞台に立つことになったのだけど、最初のうちは志村さんは、まったく笑いがとれなかった。ギャグがウケないんじゃなくて、彼が舞台に出てくるとお客さんが引いちゃうんだから」(当時を知る芸能プロ関係者)

 世代を問わず老若男女から愛された“日本一のコメディアン”からは想つい像できない姿だが、志村さん自身も雑誌のインタビューで当時を「悲惨だった」と振り返っている。

《1年ぐらいは手も足も出なかったですね。一生懸命やればやるほど、オレが出るまで、お客みんな身を乗り出して見ていたのが、オレが出たとたん、シーンとなる……それが、わかるのよ、自分で。なにをやってもウケない。自分がナニものだかわからない》

「終わるときは寂しい」こぼした本音

 もがき苦しんだ末に、あの『東村山音頭』でようやく大ブレイクを果たすわけだが、焦れば焦るほど身動きがとれなくなる苦しさ、怖さを、志村さんは身をもって知っていた。「『志村どうぶつ園』は俺が続かせる」というのも、テレビ業界、そして人気商売の厳しさを肌身で知っていたからこそ出た言葉だったという。

「志村さん、あまり昔話をしない人なんですけど、いつだったか打ち上げの席で“『全員集合』も『だいじょうぶだぁ』も終わるときは寂しいもんよ。何年もやってきたのに、少し人気がなくなったら、ハイさよなら、だもんなぁ。テレビの世界ってホント冷たいもんだよ”と、つぶやいたことがあったんだよね。相葉くんには、“先のことを心配させず、のびのびやらせたい”と思っていたんだろうね」(前出・芸能プロ関係者)

 舞台の上で苦闘し、自問自答し続けてきた、かつての自分自身の姿と、重ね合わせていたのか─。