スターへの憧れ、そしてホームレスに
小学5年生のころ、LiLiCoはひどいイジメにあった。日本人の顔立ちや先取りしてポップス音楽に傾倒するさまが格好の標的となったのだ。物を隠されたり汚されたりするのは日常茶飯事で、縄跳びでぶたれたり、痰を吐いた雪を顔にこすりつけられたりもした。何より無視されることがつらかったという。
「イジメにあったことは母に話せませんでした。アジア人や日本人という理由でいじめられてると言えば母が傷つくと思ったので」
寂しい心を埋めてくれたのは、愛読していた情報誌の中のスターたちだった。
「マドンナもみんなと同じじゃないことでイジメにあったり、シルベスター・スタローンが顔面麻痺を克服して俳優になったことを知って、有名になった人もみんな苦労したんだって励まされたんです」
また日本の祖母から送られてくる、フリフリの衣装の可愛いアイドルたちが載った芸能雑誌を見て、日本の芸能界への憧れを募らせていく。夏休みに行った日本はテレビのチャンネルが1から12まであって、夢のようだった。スウェーデンには2つしかなく、おまけに夜しか放映されていなかったからだ。
「日本にはオーディションもたくさんあるし、チャンスもある。日本に行って、好きな歌でアイドルになろう!」
そう決心し、18歳の冬に祖母の住む東京を目指した。
東京・葛飾区に住んでいた祖母は、日本語も話せない孫娘を温かく迎え入れてくれた。プロから歌の個人レッスンが受けられる学校を見つけてくれたのも祖母だった。ところがポップスを歌いたいのに、先生からは演歌をすすめられる。
「“ホイットニー・ヒューストンもこぶしだから”と言われて(笑)。そのころマルシアさんが演歌を歌っていたので、私のような外国人にも歌わせたら面白いんじゃないかと思ったみたいなんです」
まもなく、レッスンを積むより舞台で場数を踏んだほうがいいとの先生のすすめで、浜松の事務所からデビューが決まった。事務所社長の弟で22歳年上の「守さん」がマネージャーとなり、ビアガーデンや健康ランドなどイベントのステージを求めて巡業する日々が始まる。
自分で縫った衣装を着て、晴山さおりの『一円玉の旅がらす』や中村美律子の『河内おとこ節』などを歌った。
守さんは最初からLiLiCoの可能性を誰より信じ「絶対売れる! すごい子なんです」と行く先々で紹介してくれた。
しかしスターを目指す二人三脚は鳴かず飛ばずで、運転資金も底を尽きる。ある日、事務所兼住宅に帰ってくると、家財道具に差し押さえの赤紙が貼られていた。このときの借金取りが鳴らすチャイムの音が今もトラウマになっているという。追い出された2人は、守さんのセドリックで車中生活を強いられる。それは実に5年にも及ぶホームレス生活の始まりだった。
「空腹を満たすためにサービスエリアのお茶を飲んで、公園の水で身体を洗うような生活でした。祖母の家に戻ったり、母に泣きつくことは、スターになるって出てきたので、意地でもできませんでしたね」
スナックの飛び込み営業を続けながら、地方テレビ局の局長が紹介してくれたレコード会社からCDが出せたのは22歳のとき。ところがこれも売れなかった。