「4連覇したころから、もう僕もついていけず、美代子さんは実業団のトップクラスの選手たちと練習していました」(窪田さん)
自転車レースで“師匠越え”を果たした美代子。
「日本スポーツマスターズ自転車競技大会」では、2006年から2010年まで5連覇を達成するなど、自転車競技で一目置かれる存在となっていく。
しかも当時、彼女は念願叶って小学校の臨時教員の仕事にも熱心に取り組んでいた。
「主に小学校の算数の授業を受け持った高松さんは、まじめで几帳面なしっかり者。態度の悪い子どもがいると担任の先生と相談しながら指導するなど熱い人でした。給食の時、牛乳にプロテインを入れて飲んでいたのを今でも覚えています」
と小学校教諭の宮田千恵さんは、当時を振り返る。
50代を目前に最大級の挑戦
ガールズケイリン復活の噂を耳にしたのは、川崎競輪場の愛好会に参加していたときのことだった。
「ロードレースで勝つためには、最後の200メートルが勝負。そこで競輪選手の指導のもと、バンク練習に取り組むと効果はてきめん。バンバン勝てるようになりました。そんなとき、ガールズ復活を知り、挑戦したいという思いが募りました」
かつて1949年から行われていた「女子競輪」は、人気の低迷により、1964年に廃止。ところが2012年ロンドン五輪から「女子ケイリン」が正式種目に採用されるのを機に「ガールズケイリン」も2012年7月に復活することが決まった。
「家族もまさか合格するとは思っていなくて、驚いていました。長女に『これまで家事を完璧にやってくれた。お母さんの好きなことをやらせてあげたい』と言われたときは、うれしかった」と目を潤ませる美代子。
師匠の窪田さんは、年齢的なことを考えても「やるなら今」と背中を押した。しかしご主人の胸中は複雑だったと当時を振り返る。
「高松さんは当時、一部上場企業の部長。合格が発表されると会社中に知れ渡り、気まずい思いもしていたようです。競輪・イコール・ギャンブルのイメージがありましたから」(窪田さん)
35人の合格者の平均年齢は、26歳。親子ほど年の離れた49歳を迎える美代子に10か月に及ぶ警察学校並みの厳しい寮生活が耐えられるのか。新たな試練が待っていた。
「受かったときは、私もうれしかった。競輪学校の生徒会長にも選ばれ、選手宣誓する姿もテレビなどで紹介され、『脱落するなよ』と心の中で祈っていました」
と兄・壽彦さんも当時の思いを口にする。
「午前中は『スポーツ医学』『競輪の歴史』など学科の授業。午後からバンク練習や5キロサーキットを10周するなど過酷な練習が待っていました。みんなは『100万円もらっても2度と行きたくない』と言っていますが、私は家事から解放されて自転車だけに集中できる環境に満足していました」
舅・姑のいる実家に嫁いで以来、家事や育児に追われる毎日を送ってきた美代子にとって、時間を自分のためだけに使えることに勝る喜びはなかった。
そんな美代子を同期の篠崎新純選手は、驚きの目で見ていた。
「10時に消灯しても高松さんは3時には起きて自習室で勉強。そして5時から朝練も欠かしません。どんぶりご飯もペロリと平らげる。まさに“鉄人”。年齢を感じさせませんでした」
しかし美代子は内心焦っていた。長距離を走ることには長けていても、バンクを走る競輪はやはり別ものだった。
「記録会の成績が貼り出されると下から数えたほうが早い。これまでの人生でそんな経験がなかっただけに惨めな思いも味わいました」
卒業時の成績は、33人中19番目。「ここまできたら、やるしかない」という思いを胸に、美代子はプロの世界に足を踏み入れた。