運命の出来事、いざ東京へ
「演劇のメイクをする人になりたい」そう思い始めた小林さんだが、方法がわからない。近所に住む美容師さんから「東京の美容学校に行けばチャンスがあるかも」とアドバイスされたものの、学費を捻出するのは難しかった。ところが、運命的な出来事が起こる。18歳のころ、長年、自宅で闘病していた養母が亡くなって間もなくのことだ。
「病気が病気だからと、家は消毒され、親戚も1週間は来なかった。土地の風習で養父は家で見送り、私と叔父だけで養母をリヤカーで火葬場まで運び、荼毘に付しました。帰り道、叔父と別れてひとりで骨壺を持って歩いていると、お寺の奥さんに会ったんです。その奥さんも、以前は同じ病気だった。それもあって、奥さんは『かわいそうね』って泣いてくれたんです」
後日、お寺の和尚さんと奥さんが家を訪れ、お経を上げてくれた。そのうえ、お金の入った封筒を差し出した。
「以前、私が学校で家庭科の授業の準備をしていたとき、邪魔だったので腕時計をはずして近くに置いておいた。そこにお寺の子どもが遊びに来ていて、いたずら心で持って帰って、返す機会を失って川に捨ててしまったそうです。そのお詫びだと。でも、その腕時計は壊れてて捨てられていたものを拾ったものだったんです。だから私も『うっかりなくした』程度で忘れていたんですけどね」
驚いて何度も固辞したが、相手も引かないため、受け取らざるをえなかった。
「同じ病気で苦しんだ養母への思いや、自分の子どもがやったことの口止めという意味もあったかもしれません。かなりの大金でした」
そして養父からは、そのお金で、東京へ行くようすすめられる。
「養父は、私に何もしてあげられなかったこと、世間に冷たくされて養母を送るという過酷な体験をさせてしまったことを、かわいそうに思っていたんでしょうね」
そうして1954年、19歳で上京。小林さんは夢への一歩を踏み出した。
小林さんは親類の家に身をよせ、昼間は保険の外交の仕事をしながら、美容学校の夜間部に通った。しかし卒業後、同級生たちが美容院へ就職する中、演劇のメイクを仕事にしたかった小林さんは、再び進路に迷ってしまう。そのとき化粧品会社・小林コーセーの「美容指導員募集」の小さな新聞広告が目に入る。「ここならメイクがもっと学べるかも」と思って応募した小林さんは、数百人の中から見事に採用される。
1958年、23歳で小林コーセーの美容指導員となった小林さんは、山口県の特約店担当になる。化粧品の入った大きなボックスを抱え、月に25日間ほど、泊まりで、25軒ほどの担当店を順に回りながら講習会を行うという過酷な仕事だったが、小林さんは嬉々として取り組んだ。
「先輩からは口で説明して売ればいい、と教わったけど、私はお客様に実演をしたんです。マッサージやローションパックをした後、メイクをしてあげる。使った商品は簡単なカルテにして渡す。それが喜ばれて、どのお店も行くたびにお客様が増えた。私もたくさんのお客様にメイクできるのが楽しくてしかたがなかったですね」
商売が厳しい、と言われていた地方で、新人美容指導員がクレームも出さず、売り上げも伸ばしている。その実績が買われ、小林さんは、2年ほどで本社教育課の配属に。
そこでも現場で磨いた小林さんのメイクの腕が、次第に注目されるようになる。当時、教えられていたメイクは「欠点修正法」といい、顔の欠点を修正し、理想の顔に近づけることがよしとされていたが、小林さんはそれに疑問を抱き、独自のメイク方法を実践したからだ。
「理想の顔と違う部分を探して、判で押したような顔にするなんておかしい。むしろそこを強調したほうが、魅力的に見えることが経験からわかっていました。私がメイクをした女性の教育部長が、すごく印象が変わって、ほかの人から褒められたとか、受付の人にメイクを教えたらお見合いに成功したとか……そういうことが重なって、認められるようになったんです」
高度成長期で、女性のメイク欲も高まり、化粧品業界も急成長していったこのころ。小林さんは増え続ける美容部員へのメイク指導、宣伝ポスターのモデルのメイク、新商品のデモンストレーションなど、仕事の幅を広げていく。演劇の夢はいったん置き、会社の仕事に熱中していった。