かつてに比べて野宿者も襲撃の数も、激減しているが、私が取材を始めた1995年から現在までの25年間で、渡邉さんを入れると23人の野宿者が、少年や若者らによる襲撃で亡くなっている。そのなかでも、この岐阜の事件は異例中の異例だった。
通り魔的な一過性の襲撃ではなく、同一犯とみられる加害者が、連日、計画的に、標的を定めて襲いに来ている。つまり予測できた事件であり、被害者自らが何度も通報し、警察に捜査を求めていた。それだけ強く、リアルに「命の危険」を感じていたからだ。
そして多くの場合、野宿者は、ひとりで寝ているところを襲われ、孤独に亡くなり、「死人に口無し」となってしまう。一緒に生活し、被害に遭い、状況をここまで証言できる生存者がいるということは、本当に珍しい、というか初めてのことだった。
逮捕の決め手になったのが防犯カメラ。でもそれも、渡邉さんが亡くなる以前、4度の襲撃の夜も作動していたはずだ。渡邉さんが死んでからではなく、少年たちが尊い命を奪ってしまう前に、通報を受けた時点ですぐに本気で防犯カメラを確認し、捜査していたら、エスカレートする暴行も食い止められたのではないか。なぜ死人が出てからでないと、真剣に動かないのか。遅すぎた警察の対応に、責任はないのだろうか。
警察側は「対応は適切だった。落ち度はない」という。しかし、疑念はさらに深まる。
少年の家族に警察関係者がいる可能性
実は、事件の日、襲ってきた少年の1人が、こんな不可解なことを渡邉さんに言ったのを、Aさんは聞いている。
「わたなべ~、アパート入るらしいなあ~? ここ出ていくらしいなあ~」
と。Aさんは、いったい何を言っているのだろうと不思議でならなかったという。
その謎が解けたのが、事件後、Aさんが生活保護の手続きのために、役所を訪ねたときだった。対応した生活福祉課の担当者が「実は、渡邉さんにもアパートをご用意していたんですよ。ですが、まさかこんなことになるとは、残念でした。もっと早く入っていただけたらよかったのに……」と言うのを聞いて、Aさんはそのとき初めて、合点がいった。
「(犯人と)いたちごっこになるから、ここを出て行け」と言っていた警察もしくは行政関係者が、渡邉さんをアパートへ入居させるための手筈を、本人も知らない間に水面下で進めていたのだと、と思い至った。
「でも、渡邉さん本人も私も知らないことを、なんであのとき、犯人たちが知っていたのか? いくら考えてもおかしい」と、Aさんは首をひねる。
もしAさんが聞き間違えたのではなければ、逮捕された少年の誰かが、警察もしくは行政関係者の動きを事前に知っていたことになる。そしてその日は、特に「今日はババアに用事がある!」と執拗にAさんを追いかけ回したのも、2人がアパートへ入居すれば最後の襲撃になると思っていたからなのか? と疑念もわいてくる。
また、別の日の襲撃の際には、こんな犯人の発言もAさんは聞いていたという。
「上から石を投げてきた男の1人が、“俺の父さん、県警本部におるでー(おるで=いるから)”と、威張るように言っていた。私と渡邉さんに言ったのか、仲間に言ったのかは、わからないけど、たしかに、そう言っていた」という。
渡邉さんが亡くなる事件前の一連の襲撃には、男女10人ほどが関わっていたとされる。そのため、逮捕された5人以外の発言かもしれないが、もしそれが事実であれば、犯行グループの中に警察関係者の家族がいることになる。少年らが在籍していた朝日大学には、実際「警察OB」が少なくないことも気になる。
事件後、取材に訪れるマスコミ、記者たちに、Aさんは同じことを伝えている。が、警察からは「記者にいろいろ話すな」と言われ、記者には「その件は裏が取れない、書けない」と言われたという。
確かに私も「裏は取れない」。逮捕された時点で未成年であった少年たちは、20歳となって成人同様に起訴された被疑者も含め、氏名も明かされず、詳細は不明である。真偽はまだわからないし、審理を待つしかない。でも、だからといって被害者のAさんの「証言」がこのまま闇に消されてしまってはならないと思う。Aさん自身は、こう主張している、という事実を、せめて私は伝えたいと思う。