デビュー直前の持ち逃げ事件

 それでも苦難の時代は続く。追い打ちをかけるように大失恋で身を削った。

「相手はだいぶ年上の尊敬できる人だったんですが、結局別れることになった。傷心の思いで、ひとり北海道に出かけました」

 堀澤は、この失恋旅行で不思議な体験をする。寝台列車が青森あたりを通っていた夜のことだった。

「窓の景色を見ていたら、畑にビニールハウスが立ち並ぶあたりに差しかかりました。夜空には美しい三日月が輝いていた。ビニールハウスが波のように続き、月光を受けて輝いている。ふと『波間の月』という言葉とメロディーが降りてきたんです」

 東京に帰ると、リュックを背負ったまま自宅のキーボードに向かい、五線譜にメロディーを一気に書いた。同時に歌詞も浮かび、ほんの5分ほどで曲が誕生した。

「自分で作曲しようと思っても、それまではありきたりなメロディーしか出てこなかった。作曲の才能はないと思い込んでいました」

 その曲が有名プロデューサーの目にとまり、CD作成とデビューがトントン拍子に決まっていく。堀澤はデビューに向けてアルバイトや音楽の仕事で得たお金をせっせと貯金していた。

2オクターブの音域を出せるようになると話題のスクールには音程がとれない人も訪れる
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【写真】19歳から始めた小児病棟でのコンサートの様子

 医師をしていた堀澤の父は、極端な節約家で、ボロボロの車に乗って病院に通勤し、無駄なお金を一切使わない人だった。

「無駄遣いはよくない。本当に自分の人生のためになる体験のために使いなさい。そんなときのために貯めておくように」

 父の教えを胸に、長年貯めてきた資金をプロデューサーに預け、念願のデビューアルバムの制作が始まった。

 しかし─。

「彼に制作費を持ち逃げされてしまったんです。なんとか資金をかき集めてレコーディングはできましたが、お金は結局、半分ほどしか手元に戻ってきませんでした」

 '01年、堀澤麻衣子のデビューアルバム『ソル・アウラ・ヴィータ〜太陽・風・生命〜』は、インディーズからリリースされた。

「このころ、自分の人生を年表にして振り返ってみて気づいたんです。私の恋愛や仕事のパターンは、男性や社会に依存していたことに。芸能事務所に入りたい、レコード会社に認められたい、と思って依存して、嫌な目に遭って落ち込むパターン。その繰り返し。じゃあ、何でも自分でやろう。諦めないで自分で始めようと思ったのです」

 さっそく、デビューアルバムも自分で宣伝してみることにした。

 プレゼン資料も手作りし、青春18きっぷを握りしめて全国のCDショップを回った。そのかいあって、ラジオでも流されて話題を集め、関西のヒーリングチャートで1位になったのだ。

 また、歌手・作詞家として、映画やゲーム音楽への参加、ほかのアーティストへの詞や曲の提供も行う一方、どこにも依存することなく、自発的な歌の出前もやっていた。

「フランス料理店などに歌と料理のコンサート企画をプレゼンして、チラシも作って集客も自分でやって、歌える場所をつくっていましたね」