アテネ五輪での挫折

 躓(つまず)きの1歩は開幕・豪州戦。宇津木妙子監督から先発の大役を任されたが、いきなり4回3失点KO。まさかの敗戦スタートを強いられたのだ。それでも予選リーグ最終戦の中国戦では、五輪史上初の完全試合を達成。決勝進出のかかる豪州戦で雪辱を期していた。しかし、上野選手は、まさかの出番なし。チームも0対3で敗れて銅メダルに終わった。

「あのときは22歳。“自分の結果を出すことが何よりのアピールだ”としか考えていませんでした。でも結果的に全くダメだった。大会中に胃腸炎になり、体調を崩したのも響いて、“自分はホントにまだまだだな”という挫折感だけが心に残りました。いちばん悔しかったのは、大事な場面を任せてもらえなかったこと。“上野、頼んだぞ”と監督やチームメートに言ってもらえるピッチャーにならなきゃいけないって思ったんです」

五輪が1年延期になり本拠地のグラウンドではピッチング練習に汗を流す 撮影/齋藤周造
五輪が1年延期になり本拠地のグラウンドではピッチング練習に汗を流す 撮影/齋藤周造
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 北京までの4年間は、いかにして世界一に到達するかを模索する時間となった。そこで誰よりも親身になってくれたのが、彼女が師と仰ぐ麗華監督だ。上野が18歳で日立高崎に入ったときから日本の主砲として活躍していた偉大な先輩は、'03年から選手兼任監督となり、アテネを機に現役を引退。'04年夏以降は日立高崎から移行した日立&ルネサスの指揮官を務めていた。

 その麗華監督は「アテネでメダルを逃した最大の原因はピッチャー。もっとしっかりした人材がいれば、日本はより自信を持って戦えた」と分析。

「上野を世界一のピッチャーに育てて、北京五輪を託すしかない」と考え、上野選手を強豪国アメリカでの“武者修行”に誘った。頂点を目指す彼女も賛同。'05年6月、ふたりでアメリカ・ヒューストンへ赴いた。

 異国での最初の投球練習。ボールを投げようとした上野選手は、シドニー五輪で金メダルを獲得した元アメリカ代表のクリスタ・ウィリアムズ・ピッチングコーチにいきなり制された。

「あなたは今、投げる気がないでしょう。この1球を打たれたら終わりだという責任を感じながら、自信を持ってやりなさい」

 呆然とする愛弟子の様子を、麗華監督は傍らでじっと見つめていた。

「上野はそれまでのソフトボールへの取り組みを反省したと思います。単に時速120キロのスピードボールを投げればいいわけじゃない。常に感謝と責任を感じ、人間力を高めながらプレーしなければいけない。それを学べたのは財産になりました。アメリカでは、右バッターの内角に食い込むシュートを覚えさせるのが目的でしたけど、それ以上にスポーツマンたるべき姿勢を身につけた。そちらのほうが大きかったかもしれません

 上野選手は「若いころは自己チューだった」と述懐しているが、アテネ五輪くらいまでは、自分がうまくなるために必死で周りが見えていなかった。しかし、アメリカ留学で、それだけではダメだということを知った。この経験は上野選手にとって、ステップアップするために必要なものだった。