自己チューからチームのために
帰国後、上野選手は'05年に大鵬薬品戦、翌年にシオノギ製薬戦でそれぞれ完全試合を達成。'07年には日本人初の1000奪三振、翌'08年には100勝を果たすなど、猛烈な勢いで駆け上がっていく。
「麗華監督に“配球とは何か”を教わったのは本当にプラスになりました。ピッチャーの仕事は“個人として抑えた、打たれた”という勝負じゃない。試合に勝つか負けるかが第1なんです。打たれなくても負けは負けだし、どんなに打たれても勝ちは勝ち。それが理解できてから、あまり自分の結果にとらわれなくなりました。確かに記録は残したかもしれませんけど、あくまで重要なのはチームの勝利。そのためのピッチングをしようと気持ちを奮い立たせていたんです」
そんなフォア・ザ・チーム精神の集大成となったのが北京五輪だ。
「日本の勝利のために」と言い聞かせてマウンドに立った大黒柱は、予選リーグからフル回転。ラスト2日間には、準決勝・アメリカ戦、決勝進出を決める豪州戦、決勝・アメリカ戦の3試合を投げ切った。日本悲願の金メダル獲得の原動力となった上野選手の“魂の413球”は、多くの国民を感動させた。
「この先、投げられなくなっても後悔しない。肩が壊れてもソフトボール人生が終わってもいいというくらい、すべてを懸けてマウンドに立ちました。誰にも譲る気などなかったです」と語気を強めた。
壮絶な戦いの間、日本から支え続けてくれたのは、麗華監督だった。上野選手は神妙な面持ちで語る。
「試合が終わるたびに連絡していました。“調子どう?”“こういうプランで投げられたらいいね”という軽い感じの会話でしたけど、話をするたびに迷いが吹っ切れた。“麗華さんがこう言ってくれるならやろう”と決断もできた。背中を押してもらいました」
金メダルを胸にかけ、帰国した彼女を襲ったのは想像をはるかに超えた“上野フィーバー”だった。所属チームには取材が殺到。9月から始まった日本リーグにもメディアやファンが大挙して押し寄せる事態になった。
これまでの態勢ではとうてい手に追えなくなり当時、選手だった岩渕監督が上野選手担当マネージャーを兼務することになった。
「スケジュール管理や取材対応、テレビ収録の立ちあいを2年間やりましたけど、本当に目まぐるしい状況で、帰りが深夜になることも少なくありませんでした。本人はもともと人前に出るのが得意ではないので、疲れるうえに、緊張やストレスも重なる。競技に集中しづらくなっていきましたね」
周囲が騒がしくなると、他者への気配りができず、対応もおざなりになりがちになった。日本リーグの試合後、声援を送ってくれる熱心なファンに笑顔すら見せることなく、足早に去っていく娘の立ち居振る舞いに母・京都さんは、こんな言葉をかけた。
「あなたは子どもたちにとってはスターなんだから、スターらしく振る舞いなさい」
上野選手はハッとさせられたという。
「基本的に注目されるのが好きじゃなくて、“嫌だ嫌だ”と言っていたけど“立場上、しかたないんだから、駄々をこねずに受け入れなさい”と、母から言われた気がした。
特に子どもたちから憧れの存在として見られていることに気づいて、ガッカリさせる態度はいけないと感じた。母の言うことは腑に落ちましたね。ストレートに自分を叱ってくれるのは、麗華監督と母くらい。そういう意味では胸に響くものがありました」
気持ちを新たにして、子どもたちの応援を励みにマウンドに立ち続けた。しかし、北京に突き進んでいたときのような闘争心や向上心はなかなか湧かず“燃え尽き症候群”に陥った。メンタルバランスが完全に崩れているのに、試合に起用され、投げれば打者を打ち取れる。力いっぱい練習しなくても結果がついてくる。超一流のアスリートとして中途半端な状況に腹が立ってしかたがなかった。
「このままだとチームに迷惑をかけるし、自分自身もダメになる……」
ソフトボール人生で初めて生じた迷い。それをぶつける相手は、麗華監督以外にはいなかった。
「やる気がなくてもいいから続けなさい。続けることに意味があるんだから」
尊敬する人にこう言われて、上野選手は「それでいいの?」と、反発して聞き返したくなったという。