半裸のオッサンが路上に倒れる街
当時の僕は日雇い労働者が集まる街、ドヤ街があるというのも知らなかった。
東京の山谷、横浜の寿町、大阪の西成、がドヤ街の代表的なところだ。
「西成も行ったことのない奴が、ホームレス本出すなんてちゃんちゃらおかしいわ」
と名古屋の栄にいたホームレスのオジサンに言われて素直に足を運ぶことにした。
初めて訪れた西成は衝撃的だった。道にはバタバタと半裸のオッサンたちが倒れていた。
「テロでも起こったの?」
と半ばマジで心配してしまったほどだった。夏場だったのだが、目に染みるようなアンモニアの臭いがただよっていた。
酒の自動販売機の前では酔っ払いが集まって、ワイワイと飲んでいる。ひときわ酔っ払ったオッサンが、大声で
「ワシは天皇陛下の息子じゃー!!」
と叫んでいたのを、なぜかよく覚えている。叫んだ後、まわりの人にツマミをくれないか? とせがんでいた。
暴動に備えて要塞のような頑健なつくりの西成警察署に話を聞きに行くと
「急に走らんように、みんな何かあると思って走り出して暴動につながるからな。あと覚せい剤売ってるけど買わんように。西成は赤痢と結核がまだ流行ってるから、手洗いうがいはしっかりするように」
と、めまいがするくらい絶望的な忠告をされた。そんなショックを受けながらも、がんばって公園に住むホームレスの人たちに話を聞いた。
ずいぶんホームレス事情には詳しくなったが、まだ気分的には西成は衛生状況も相まって“怖い場所”だった。
ワケありな人々が働く焼き鳥屋台の仕事
そうして僕は潜入取材や体験取材をして原稿を書くライターになった。2000年のある日、編集部から、
「西成に行って働いてこい!!」
と言われた。
無茶振りに対して、最初は日雇い労働者として雇われようとがんばったがなかなか上手くいかない。結果的に、壁にはられた『焼き鳥屋 店員募集 委細面談』の怪しげなチラシを頼って面接を受けてみた。
結果を言うと、
「路上で屋台を出して焼き鳥を売る」
というとても過酷な労働だった。当然許可は取っていない。暴力団とガッツリつながっている、ブラックすぎる会社だった。
寝るように言われたアパートは6人部屋で、2段ベッドでオッサンたちがグーグー寝ていた。会社で横領したのがバレてクビになり、そのままホームレス状態になった男性など、ワケありな人たちが集まっていた。
そんな会社の労働が9時〜5時・土日休みな訳はなく、朝5時から鶏肉をさばき、屋台に宅配し、昼から夜中まで焼き鳥を焼いて売り、屋台を畳んで帰ってくると夜中の2時だった。たった3時間しか睡眠は取れず、クラクラした頭で働いていた。