学校よりアルバイトのほうが楽しくなった
学校に行かなくなった原因はアルバイトにもある。バブル最盛期の当時、海外の街並みやプールサイドで寝そべる美女など、景気のいい写真に需要があった。そういった写真のポジを貸し出すフォトストックのカメラマン事務所で助手をしていた鈴木さんは、写真を撮るため、1年の3分の2は世界を飛び回っていたのだ。
「いつの間にかアルバイトのほうが楽しくなったのと、写真で稼げることがわかったのとで大学はやめてしまいました。退学ではなく、除籍です」
ファッションカメラマンの藤田一浩さん(51)は、同じ事務所で働いていた後輩。姉妹に挟まれて育った藤田さんは、鈴木さんを「お兄ちゃんみたい」だと感じていた。
「僕は、大阪の大学を出て上京してきたんですけど、生まれは秋田なものですから、東京の地理が何もわからない。そのとき、鈴木さんが一緒に家を探してくれたんです。一応、写真学部だったんですけど、ロクに授業に出ていなかったので、『お前は本当に何も知らないな』としょっちゅう鈴木さんに呆(あき)れられていました。
それでもカメラを買うときについてきてくれて、使い方も教えてくれて。面倒見がいいんですよね。当時買ったカメラはニコンのF3っていうんですけど、今も使っています」
あるとき、鈴木さんに半年間のロサンゼルス撮影の話が舞い込んだ。必須条件は普通運転免許。無免許だったが、「持っています」と即答し、慌てて免許センターへ。しかし、出発日は差し迫っていた。
「非公認の自動車学校に2日通って、鮫洲で試験を受けて、落ちて、翌日は府中に行って、また落ちてを繰り返して、1週間ぐらいで免許を取ったんじゃなかったかな」
ロス暮らしが始まった。当時の住まいはダウンタウンとハリウッドの間にあるシルバーレイク。マンションのそばには3ドルでたらふく揚げ物が食べられる日本名のシーフードバーがあった。日本語に飢えていた鈴木さんは、次第に店主と言葉を交わすようになってゆく。
「当時、安部譲二の自伝的小説『塀の中の懲りない面々』が流行っていて、店主が『俺は安部譲二の舎弟だった』と言うわけ。そこから、その人と仲よくなりました。
当時の俺は、白人に負けたくないって気持ちが強くて、日本人らしいテーマの写真を撮りたいと考えていたんです。それを相談したら、彼が『ヤクザはどうだ?』とアドバイスしてくれて。確かに、ヤクザって被写体として魅力があるんですよ。刺青(いれずみ)は入っているし、指はないし、盃(さかずき)の儀式には荘厳さがある」
ある日、鈴木さんはハリウッドにつながる101号線の陸橋から夕暮れのビル群を撮影していた。ガスがかかるといい写真が撮れないため、そのスポットに通って何日目かのこと。夢中でシャッターを切っていると、ふいに衝撃が走った。暴漢に襲われたのだ。
「そのとき、暴力って怖いし、暴力って強いし、暴力って力の根源だな……と思ったんです」
結局、カメラも、撮影ずみのフィルムも、スニーカーも奪われていた。