ヤクザに拉致されても、怖くはない

「実況見分してくれたのが不良刑事で、友達みたいになったんです。その人に『俺たちはタダで撃てるから』と連れて行ってもらったポリス・アカデミーの射撃場で、『お前、防弾チョッキ着て撃たれたことないだろ』と言われて。なぜか防弾チョッキを着て、至近距離から銃で撃たれたんです一瞬で人生観が変わるぐらいの衝撃でした

 こうした出来事が重なり、帰国した鈴木さんは暴力を取材テーマにしたいと考えた。

 そして、ヤクザ専門誌『実話時代』編集部の扉を叩く。

「編集部に連絡したら、カメラマンは募集していないというので、とりあえず編集部員として入りました。すぐ辞めようと思っていたのですが、2か月ぐらいで『実話時代BULL』って雑誌の編集長にさせられて。編集長といっても要はクレーム担当で、若いやつにやらせるわけです。そこからずるずる今に至ります」

 仕事内容は急変したが、少しずつヤクザの流儀を覚えていった。例えば、名前や組織の間違いなら、人間なら誰でもあるケアレスミスなので、謝れば許してもらえる。一方で、間違えられないのがケンカの勝ち負けだ。

2007年、千葉で行われた指定暴力団トップの襲名盃にて、故・中村龍生カメラマンが「たまには鈴木君も撮ってやるよ」とスナップしてくれた1枚
2007年、千葉で行われた指定暴力団トップの襲名盃にて、故・中村龍生カメラマンが「たまには鈴木君も撮ってやるよ」とスナップしてくれた1枚
【写真】「心から信頼できるヤクザ」だという組長と鈴木さんの貴重なツーショット

彼らはいかにケンカが強いかという表看板をしょっているから“負けた”はタブーだし、匂わせてもダメ間違えたら訂正文を出すしかないんですけど、ヤクザは前例より大きい訂正文を出させたがるんです。1回やるとキリがないので、いかに小さなスペースに収めるかが勝負でした」

 携帯電話がまだ普及していない時代。編集部に呼び出しの電話がかかってくることもあった。とはいえ、恐怖心はなかった。会って話せば仲よくなって人脈を広げられるし、根性を見せておかないと、「お前、あのとき来なかったよな」と、なめられるからだ。わかる気もするが、さらりと、「拉致されたこともあります」と聞いたときは耳を疑った。

彼らはプロだから、殺人に見合うだけの利益がなければ殺さないこちらも書いてはいけないラインがわかっているから、拉致されても怖くはないんです

 ほどなくしてフリーライターに転向し、精力的に暴力団関連の取材を続けた。そのころ、こんなアドバイスを送ってくれたヤクザがいた。

「『フリーになった以上、数年に1度はヤクザに襲撃されるようなことを書かないと、お前の名前が高まっていかないぞ』と言われたんです。それも一理あるなと、山口組があまり東京に進出していなかったころに、彼らが嫌がるようなことを10個ぐらいまとめて書いたんです。クレームもあったけど、無視しました

 自宅がバレるのを懸念した鈴木さんは、歌舞伎町に事務所を借りていた。ある朝5時ごろ、そのドアを叩く音がするハッと思うや室内に目出し帽をかぶった男が5人ほどなだれ込んできて、パソコンや備品を破壊された

顔を絨毯(じゅうたん)に押しつけられて引きずられたので、擦過傷みたいなものもできました。でも、痛いのなんて一瞬で、渦中にいる間は何も感じないんです。ギャングに襲撃されたときも同じで、恐怖は後からやってくる。ある程度、落ち着いて、庭の暗闇とかを見ているときに、今ここにヤクザが潜んでいたらどうしようと怖くなるんです」