初めての世界選手権で優勝
競技会へ出場するようになったのは、トレーニングを始めて10か月後に出場した茨城県神栖市での市民ベンチプレス大会がきっかけだった。
「何にも知らなかったのに怖いもの見たさで行ったら、30kgが挙がっちゃったの。そうしたら審判をしていた人が、“あなた、一生懸命やれば40kg挙がるよ”って。私、(おだてられると)木に登る豚ですからね。それで一生懸命やりだしたんです」
住友金属工業内ジムで、トレーニングを続けること10年。もともと素養があったのだろう、2012年、奥村さんは82歳でマスターズベンチプレス全日本選手権47kg級に出場して優勝し、見事2013年の世界選手権への切符を手にすることができた。
この年、世界選手権の開催場所は中欧のチェコ。だが、日本代表といっても、チェコへの飛行機代も宿泊費も自己負担で、40万円近いお金が必要だった。
「主人に、“お金がかかるから”と言ったら、“行け行け!”って。そして“世界大会なんて誰でも出られるものじゃない。お金なんて生きているうちに使うもんだ!”って言ってくれた。“じゃあ、1回だけね”ということで出かけたんです」
当時の事情を前出・李コーチがこんなふうに証言する。
「奥村さんがガンガンやっているのを、ご主人が見守っているという感じでしたね。
(リハビリの終了後)ご主人もパワーリフティングをされていたんですが、ご病気をされてしまった。競技者としては不本意だったと思いますが、奥村さんは断トツで挙げていましたので、ご主人は楽しく応援しているという感じでした」
出場した世界選手権の試技は3回。自分が申告した重さを挙げるが、挙げられなくても軽くすることはできない。次回は同じ重さに再トライするか、2・5kg刻みで重くするかのどちらかしかない。
世界選手権特有の張り詰めた雰囲気のなか、奥村さんの1回目の試技が始まった。
ベンチの上にあお向けになり、審判の“スタート!”という声で総重量40kgのバーベルをラックからはずし胸の上で静止させる。審判の「プレス!」という合図とともに、奥村さんの「エイ!」という気合が響いた。
見事40kgをクリアした。82歳、体重47kgの人の40kgクリアである。
2回目の試技では42・5kgをクリア。3回目の45kgは失敗したが、2位のチェコ人女性に5kgもの大差をつけて世界選手権初優勝を飾った。
「試合が終わったあと、(チェコ人の)彼女がハグしてくれて“あなた(奥村さん)、強いね。来年もまた、会おうね”って言ってくれて。私も勝ってうれしくなっていたもんだから、“うん、会おうね!”と応えた。
翌年の世界選手権はイギリスですよ。それで帰りの飛行機で冷静になって“さて困った。彼女に会おうと言っちゃったけど、どうしよう?”。
私、嘘つくのがいちばん嫌いなんですね。それでありのままを主人に言うと、“何回でも行け、行かれるうちは行け”と。それでやみつきになっちゃった!(笑)」
以来、翌2014年のイギリス大会、2015年のアメリカ世界大会と3大会連続で金メダルを獲得した。
2016年のデンマーク大会は、惜しくもメダルを逃す。現地に行く飛行機で、窓際に座ったのが敗因だった。
「水分をとるとトイレに行きたくなるでしょ? 飛行機で窓際に座ってしまうと、(通路側の人に)いちいち“エクスキューズ・ミー”と言って行かなくちゃならない。
どうしようもなくて1度だけ“私、レストルーム(トイレ)に行きたいんだけど”と言うと、通路側に座っていた外国人が“どうぞ、どうぞ”って立ち上がってくれて。
それでトイレに行って、出てから自分の席をひょいと見たら、座らないで立って私を待っている。日本人の私としてはそう何回もトイレに行けないでしょ? それで十分な水分がとれなくなって、試合のときに立てなくて、失格になってしまったの!」
そんな思いもよらない理由から4連覇を逃してしまったが、雪辱を果たそうと気合十分でいた2017年のアメリカ大会直前の3月、奥村さんの身に予想もしなかったことが襲いかかる。