夫と死別「2人前働く」日々
2歳になった娘の面倒を母にみてもらい、新聞の求人広告を見て仕事を探した。ときは1960年。4年後の東京オリンピック開催が決まり、世の中は高度経済成長に沸いていた。だが、女性は結婚したら退職するのが当たり前の時代で、職探しは難航。書いた履歴書は100枚に上る。
ようやくアジア経済研究所に機関誌の編集助手として採用されたが、既婚女性は正社員になれないとわかり数か月で辞めた。
育児雑誌の編集者を募集していた学研に応募すると、面接で「女性は妊娠4か月で退職する内規がある」と言われ、思わず反論した。
「母親向けの雑誌を作ろうとしているのに、母親の目を阻害していいのですか?」
最後は、女性が働くことに理解があった社長の判断で入社が決まった。
編集の仕事を覚えて楽しく働いていたが、31歳のとき、樋口さんを思いもよらない不幸が襲う─。
夫が糖尿病性昏睡により倒れ、わずか5日で亡くなってしまったのだ。
「夫婦仲もよかったし、夫は仕事も順調で、やりたいこともいっぱいあっただろうし、かわいそうで、かわいそうで。私は泣いて、泣いて、よくこんなに涙が枯れないと思うくらい……」
女学校、高校の友人が次々見舞いに来てくれた。そのうちのひとりにこう言われて、ハッとしたという。
「あなたは仕事があるから泣いていられるのよ。子どもを抱えて明日からどうやって食べていこうかと思ったら、泣いている暇はないわよ」
前出の同級生の加納さんも心配でたまらず、何度も様子を見に行ったそうだ。
「家族ぐるみでよく旅行に行ったりしていて、本当に温厚で素敵なご主人だったから、ビックリしましたね。すぐ駆けつけたら放心状態で、お恵さんまで死んじゃうんじゃないかと思ったくらいです。ただ、嘆きようも激しかったけど、そこからの立ち上がりも早かったですよ。仕事があったからというより、昔からウジウジ、グジグジしていなくて、行動力があるんです」
当時、夫が勤めていたキヤノンには若くして社員が亡くなった場合、残された妻を雇う慣習があり、樋口さんは広報宣伝部で働かせてもらった。学研は辞めたが、ライターとしての仕事は続けた。
「夫が死んで悲愴になっていたから2人前働こうと思って。働いたなー、あの時期は。徹夜で原稿を書いて、朝そのままキヤノンに行って働いていると、椅子から立ち上がるだけで空気が重いの。若いからできたのね」