自転車操業で切り拓いた訪問看護の道
義兄は、姉の看病のために有休を使いきり、ペナルティー覚悟で仕事を欠勤していたが、看護による欠勤を職場は認め、当時は珍しい「介護休暇制度」を会社に取り入れることになった。
秋山さんもまた、「こういった在宅ケアが必要な人がいる」と姉の死をきっかけに強く思い、10年勤めた看護教員をやめ、訪問看護を学ぶことにした。
姉の死後、秋山さんは東淀川区の病院の訪問看護室に研修費を払い通い始めた。そこで訪問看護のプロである保健師の高沢洋子さんに出会う。
淀川堤を自転車で風を切って移動する高沢さんに「いちばん使えないのが学校の先生よね」と、最初に言われてしまった元看護教員の秋山さん。それでも、勉強したくて必死について回ると、2週間後には「もうお金(授業料)は払わなくていいわよ」と言われた。訪問看護師として認められた第1歩だった。それでも「鍛え直す」という意識で1年間、学び続けた。
その後、1992年に、夫の転勤で東京・市谷に引っ越しをした。秋山さんは、姉の在宅ケアでお世話になった市谷の「ライフケアシステム」へ働きたいとお願いに出向くと、ちょうど老人訪問看護ステーションを立ち上げようとするところだった。
秋山さんは無事採用され、1日に4件ほど回る訪問ケアをスタート。まだ訪問介護ステーションは数が少なく、市谷から東京郊外の三鷹市、千葉県市川市など、遠方にまで出向くこともあった。そのため、午前中に1件だけ、という日もあった。
2000年になり、介護保険制度が導入された。それ以前は公益法人格を持っていないと医療事業はできなかったことから、白十字診療所とライフケアシステムが組み、白十字訪問看護ステーションが運営されていた。
しかし、介護保険制度ができたことにより、ライフケアの会員でなくても、介護保険を使えば訪問看護が利用可能に。そのため門戸は広がり、地域でのニーズが高まり、近くの医師から紹介された人にもケアを届けられるようになっていった。
しかし、これからというときに突然、医療法人の理事長が倒れた。白十字診療所を閉じなくてはならなくなってしまった。母体法人がないと、訪問看護はできない。丸ごと白十字訪問看護ステーションを買い上げてくれるところを探したが、そんなところもない。どこかの病院にくっつくにしても、その病院の方針に従うしかなくなる。
白十字訪問看護ステーションをなくさないため、秋山さんは代表取締役として'01年、訪問看護・ヘルパーステーション事業を行う「ケアーズ」という会社を立ち上げた。現場での「実践」が好きだったが、そうも言っていられない。
立ち上げ資金は借金でまかなうしかなかった。「無担保で実績なしで、女性であるあなたがお金を借りるのは難しい」と言われたが、ふと横を見ると、大学教授であり、男性である夫は「ばっちり」。秋山さんは夫に「この1回だけ」と頭を下げ、銀行に面接に行ってもらい、立ち上げ資金を確保した。
医療保険も介護保険も、報酬は利用時から2か月ほど遅れて入る仕組み。ケアーズの立ち上げに一緒に関わった看護師たちは、全員が経営者の気持ちで、自転車操業のペダルを必死で漕ぎ続けた。
浦口醇二さんは、このころ秋山さんと出会っている。白十字訪問看護ステーションを利用し、母親を在宅で看取ったのだ。
「おふくろは、センシティブな人でね。“この人なら大丈夫”と紹介してもらったのが秋山さんでした」(浦口さん)
浦口さんの母親はソプラノ歌手だった。それを意に介さず、ある日、秋山さんは浦口さんの母親を励ますために、賛美歌を歌った。
「秋山さんは相手にとっていいと思ったら、やるんだよ。温かい心と強い意思というのかな、その両方を見た。歌手の母からしたらさ、“私の前で歌うの!?”っていう感じだったかもしれないけどさ」
と、浦口さんは微笑む。その縁が続き、都市計画が専門だった浦口さんはのちに、秋山さんの事業の建築の設計に関わっていくことになる。