娘の絵から発想した『魔女の宅急便』
『魔女の宅急便』を発表したのは50歳のとき。初めて書いた長編だった。
「娘のリオが、ラジオをホウキにぶらさげて、音楽を聴きながら飛ぶ魔女の絵を描いたのを見て思いついたんです。娘のような、現代っ子の魔女を書いてみようって」
飛ぶ魔法しか使えない新米魔女のキキが、家を出て独立し、黒猫のジジと一緒に新しい町に住み、たくさんの人と出会い、成長していく物語ができあがった。
出版の4年後、『魔女の宅急便』は宮崎駿監督の手でアニメーション映画となった。
「私の要望は描いた世界観とキキの名前は変えないでほしい、ということだけでした。それから、キキが旅立ちのときに、お母さんが木にぶらさげていた鈴に触れて鳴るシーンは作ってほしいとは申し上げたかな」
映画は大人気となり、読者も一気に増えた。
「『魔女の宅急便』は1巻で終わるはずだったのよ。だけど、キキがコリコの町へ帰るところで1巻が終わっているので、“この後どうなるんですか?”って手紙がいっぱい来て。それで2巻を描き始めたんです」
それから24年間かけて、シリーズ6巻を書き上げた。1巻では少女だった主人公キキが、恋をし、結婚をして、男女双子のお母さんとなる姿まで描かれている。
「キキが男の子を産んだら、どんなふうになるんだろうと思ったの。女の子は魔女になれるけど、男の子はなれないという設定だったから、魔女になれない世界も描いてみたかった」
そこには、なりたい自分になれないで悩む子どもたちや、思春期の子どもを前に戸惑う母の姿も描かれている。飛べなくても姿を消せなくても、“誰でも魔法をひとつ持っている”という思いを託した作品。世界中の人たちに愛され、今も長い手紙が来る。
「『キキズ デリバリー サービス』というタイトルで、多くの国で翻訳されています。これだけ世界が広がったのは、宮崎さんの映画のおかげね」
べそべそ泣いてばかりの子でした
「どんぶらこっこぅ、すっこっこぅ」
2018年、「小さなノーベル文学賞」と言われる国際アンデルセン賞作家賞を受賞した角野さん。ギリシャのアテネで行われた受賞講演で、のどかでユーモラスな、『桃太郎』に出てくる音の表現を紹介した。それは、幼い日々に、父が歌うように昔話を聞かせてくれた音だった。
角野さんは1935年(昭和10年)生まれ。5歳のときに病気で母が亡くなり、大きな哀しみを背負うことになってしまった。
「小さいころはべそべそ泣いてばかりの子でした。父や姉や弟が突然死んでいなくなっちゃったら、どうしようという怯えがずっと消えないのね。集団生活もうまくできなくて、ウソついて授業の途中で帰って、先生を困らせたりしてました」
そんなときは、よく父が本を読んで慰めてくれた。
「『かちかち山』で始まったのに、途中で違う作り話になったりしてね。父は落語や講談、浪花節にも詳しくて、いろんな口まねをして、おもしろかったんです。私は夜また涙が出てきてしまうと、枕を持って父の布団の中にもぐりこんでいました」
父の話とともに角野さんが熱中したのは、ひとり空想して遊ぶこと。
「そういう子って見えない世界に憧れる。特に昔は、月命日やお盆の行事があり、見えない世界を想像するきっかけがいっぱいあったから」