事件後になくなった記憶
あの年のクリスマスパーティーは、イブより1日早まり、12月23日に開かれた。
世田谷の家に集まったのは、節子さんと夫の良行さん(享年84)、みきおさんをのぞく一家3人の計5人。外資系企業に勤めていたみきおさんは仕事で不在だった。節子さんが回想する。
「いちごがのせてあった丸いデコレーションケーキを、にいなと泰子さんが作ってくれたんです。ごちそうになった後、おじいちゃん(良行さん)を頼むよって別れました」
節子さんは、義兄の世話をするため、実家の岩手県に帰省した。良行さんは埼玉県の自宅に1人残されるため、面倒をみるようお願いしたのだ。
年越しの準備をしていた12月30日夜、親戚の1人が突然、実家へ慌てて訪ねてきた。
「すぐに帰る準備をしろ!」
そう伝えられた節子さんは、何が起きたのかわからないまま親戚たちと一緒に急きょ、東京へ車で向かった。その途次、ラジオで事件の報道が流れた。
「聞いているとうちのことじゃないかとは思ったんですが、車中でみんな黙っていて、ひと言も発しなかったんです」
重苦しい空気が流れる長時間のドライブを経て、埼玉県の自宅に到着したのは、年が明けた後だった。そこに良行さんの姿はなかった。
「2階の部屋でみんなが私を寝かせようとしたんですが、そこから何も覚えていないんです。お葬式もちゃんと参列してたよって言われるんだけど、全く記憶がないんですよ」
親戚の1人が発生から1か月ほど自宅に残ってくれたが、その記憶もおぼろげだ。
節子さんは、手帳に簡単な日記を毎日つけていたが、その年は白紙だったという。
「夫は事件に関する話は家では一切しませんでした。私に考えさせたり、思い出させたりするのが嫌だったんじゃないかと思います」
メディアへの対応を含めた対外的な用事は、良行さんがすべて対応した。講演などの行事には一緒についてはいくが、節子さんが表に出ることはなかった。2009年、良行さんを初代会長とする「宙の会」が結成され、翌年には公訴時効制度の撤廃を実現させた。ところがその2年後、良行さんが他界。その代わりを節子さんが務めると、隣近所から「お宅だったんですね」と声をかけられるようになった。
「自分が対応して初めて、夫にだけ大変な思いをさせていたんだな、つらかったんだなって。その気持ちがようやくわかるようになりましたね」
良行さんがいたころは毎月、4人が眠る墓に車で通ったが、現在は、良行さんを含む5人の誕生日に、電車を乗り継いで通っているという。