2020年大みそかに行われたWBO世界スーパーフライ級タイトルマッチにおいて、見事2度目の防衛に成功したものの、試合中、左腕のタトゥーが露出してしまったことが問題視されている井岡一翔選手。JBC(日本ボクシングコミッション)のルールでは『入れ墨など観客に不快の念を与える風体の者』は試合に出場できないことになっているため、たとえ意図的ではなかったとしても処分が下される可能性があるという。この件をきっかけにフィフィは、日本に根強く残るタトゥー観に注目する──。
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今回の井岡選手の件は、隠すためのファンデーションが落ちてしまい、図らずもタトゥーが露出してしまったということのようなので、これでルール違反として処分されるのはかわいそうな気もしますよね。外国人選手はタトゥーOKということで、その辺の基準も曖昧ですし。ただ、たとえどんなに理不尽であったとしても、やはり基本的にはルールは守った方が良いと思います。
K-1などでも奇抜なタトゥーをしている選手は多いけど、私を含め実際に会場に足を運んでいるファンたちは、そんなことは別に気にしておらず、“タトゥーを隠していないから嫌”“ファンを辞める”ということにはなりません。でも今回の試合のように、テレビ放送され、興行としてお金を集めるため新たなファン層を獲得したい、もっと裾野を広げて女性やファミリー層にいたるまで幅広くお客さんを獲得したいとなると、やはりイメージは大事になるので、タトゥー禁止のルールは仕方ないのかなと。残念だけど、まだ日本には『タトゥー=反社・悪い人』というイメージが根強く蔓延(はびこ)っているからね。
なぜそうしたイメージが未だに払拭できないのかと言えば、彫ったことでイキがり、悪ぶって行動してしまう層が一定数いるからだよね。彫ったことで性格が変わってしまう人もいると聞きますし。やんちゃをアピールしたい人、悪ぶりたい人が率先して彫るために、タトゥー=悪い人、とリンクしてしまう。
タトゥーを入れて悪ぶっている人がいて、タトゥーを悪く見る人もいる──。ルールを本当に変えたいならば、こうした風潮から変えていく必要があるけど、日本ではまだまだ隠さなきゃいけない時代は続くと思います。
海外のタトゥー観は日本と全く異なる
井岡選手の試合は本当に素晴らしいもので、あれだけの試合をするためには相当なトレーニングや自制が必要だったはず。悪ぶりたくてタトゥーを入れているわけでないことは伝わってくるだけに、そういう人たちと一括りに見られてしまうのはもったいない。もともと格闘技そのものに、少なからずやんちゃなイメージが付いてしまっているところもあるので、現状、そのルールは守った方が良いのかなと。
海外の場合、もちろんやんちゃで彫っている人もいるけど、それ以外の理由で彫る人のほうが圧倒的に多いから、日本のようなタトゥー観は皆無です。
たとえば、欧米・中東など多くの国では、古い時代に日本のように整った戸籍制度があまりなく、遺体になったとき身元がわかるように彫ったり、どこの部隊なのか明示するために兵士さんたちが番号を彫ったり、あるいは部族の習慣として彫ったりします。私の祖父も手の甲に身元がわかるようタトゥーがありました。
NYに住んでいたときも、ウォール街で働くやり手のビジネスマンが派手なタトゥーをしているのを目にしましたが、現地の人々で彼にやんちゃなイメージを持つ人はいません。
日本の和彫りも海外ではアートやファッションとして人気です。技術が高く、絵柄が細かくて魅せられます。私自身は飽き性だし特定の柄に思い入れもないので自分で入れようとは思わないけど、見るのはすごく好きですよ。海外においてタトゥーは時代や土地の慣習、あるいはアート・ファションなど、多種多様な捉えられ方があるんです。
また、日本にはタトゥーやピアスもそうですが、“親からもらった身体に傷をつけるなんて”みたいな考え方がありますよね。海外だと、お祝いの意味を込めて新生児のうちにピアスの穴を開ける習慣のある国もあります。割礼もそうですが、感染症のリスクが少ないうちに処置しておき、高価な金のピアスをプレゼントするというわけです。諸外国では“親からもらった身体”というよりかは、“神様からもらった身体”だという考えかたが主流なので、産んでもらった親には感謝しつつも“親からいただいた”とは思わない。だからタトゥーを入れるのも自由なんです。
2013年にニュージーランドの先住民族マオリの女性が顔に入れ墨があるとして、北海道の温泉施設で入浴を断られたという問題がありました。アイヌ語復興を目指す講習会の講師として日本サイドが招いたにも関わらず、その施設は頑なにマニュアルを守って“入館禁止”。女性は「入れ墨はマオリの尊厳であり大変残念」だとのコメントを出していました。
開催されるかはわかりませんが、東京オリンピックも控えていますし、今後ホスト国として外国人を迎えるときに再び問題が起こりかねません。今回の件に限らず、“多様性”と声高に主張するならば、一度しっかりと話し合わないといけないテーマですよね。
〈取材・文 岸沙織〉