不登校を責めずにサポートした両親
「気が弱くて言い返せないのに、どこか目立ちたがり屋みたいなところがあって、調子に乗るとすごくしゃべったりしていたからですかねえ。周りから見たらうっとうしかったのかもしれない。頭を叩かれたり、音楽教室へ移動するとき音楽の教科書をボールみたいに蹴られたりして、僕があわてて追いかけることがありました。
そういうことが続いて、中2のときの林間学校に行けなくなってしまったんです。その後、もし学校へ行ったら“あいつはマザコンだ。だから親から離れて林間学校に行くことができなかったんだ”と言われるとわかっていたので、そのまま不登校になったんです。
ちょうど親が家を買う時期と重なったので引っ越したんですが、すでに人間不信になってしまっていたので、新しい中学には1日しか通えませんでした。同級生とうまくやる自信をなくしていたんです」
家にひきこもる日が続いた。落ちこぼれた、先がないと絶望感にも見舞われた。当時は不登校からのリカバーの方法がわからなかったのだ。それでも自室にひきこもることなく、家族とは一緒に食事をしたという。両親がまったく彼を責めなかったからだ。母親は市が主催する親の会に通いながら、不登校に関して知識を得て、本人を焦らせることはなかった。自宅にメンタルサポートの担当者がやってきたこともある。当初は会うことを拒否した新舛さんだが、そのうち会って話せるようになった。
「その後、父親がうつっぽくなって会社へ行くのがつらそうな時期があったんです。父はその経験から僕のことも理解してくれて、サポートしてくれるようになりました。周りが理解してくれたので、僕自身は自分のしたいことをしていいと思えた。とはいえ思春期で、本当はカッコいい自分を演出したい時期でしょ。だからつらい気持ちを親にストレートにぶつけることはありませんでした」
家庭教師に感化されてマスコミ志望に
高校へ通っているはずの10代後半、彼は新聞や雑誌を通して世の中を見ていたという。
政治や事件など、あらゆる出来事の原因と経過を考えるのが好きだった。ただ、今思えば自分のことをわかっていなかったような気もすると話す。
「当時は冷静で客観的な気持ちでいましたが、実際は不登校であることを自分自身がいちばん受容できていなかったかもしれない。親は最大限、僕の主体性を尊重してくれていました。ただ、僕自身が自分の置かれている状況をきちんと把握できていなかったので、不登校の人たちが通う通信制高校や大検に関しては嫌悪感を持っていたんです」
不登校であることを認めたくない気持ちと、不登校であるがゆえに何者にもなれないという不安が交錯していた10代後半。社会の背景を知りたいという彼の願いを聞き、親が家庭教師をつけてくれた。そして、慶應大学に通っていた家庭教師に感化されてマスコミ志望となる。自分が影響を受けた新聞という媒体で、記事を書いてみたいと考えたのだ。