なでしこジャパンで痛感した「世界の壁」

 飽くなき向上心と闘争心を関係者も高く評価。'03年10月には'04年アテネ五輪を目指していた女子日本代表(なでしこジャパン)の候補にも初招集される。「なんで私が?」と本人は驚き半分だったが、女子基準をはるかに超えたパワーとスピードを兼ね備えたフォワードが16歳でお呼びがかかるのは、ごくごく自然の成りゆきだった。

 そして翌'04年4月のアジア最終予選・タイ戦で、なでしこデビュー。同時に日本は8年ぶりの五輪切符を獲得する。「7月の本大会にも永里は選出されるだろう」と誰もが確信していたが、まさかの落選。初の五輪参戦は夢と消えた。この悔しさを糧に、高2のストライカーとしての自分自身に磨きをかけた。

 松田監督はこのころの様子を思い浮かべ、こう語る。

「永里には“力強さだけじゃ通用しない”とよく言っていました。彼女も自分なりに考えてシュート練習を毎日欠かさずやっていた。技術や駆け引き、状況判断力を向上させようと目の色を変えて取り組んでいました。サッカーに関して絶対に妥協しないのが永里。その姿勢は本当に凄まじかったですね」

 地道な努力の積み重ねもあり、'05年からはなでしこジャパンに定着。高校卒業後は東海大学に進み、夜にベレーザの練習へ参加する生活に。とはいえ、サッカー以外の時間も大事にしていた。外食チェーン『やよい軒』でアルバイトをしたり、学校の友達と語り合ったりするなど、限られた時間を有効活用しつつ人間としての幅を広げていった。

 そして迎えた'08年。なでしこジャパンの中核選手に上り詰めていた永里は、ようやく五輪の大舞台を引き寄せる。

 '08年北京大会だ。佐々木則夫監督(現『日本サッカー協会』理事)率いるチームは1次リーグを順当に勝ち上がり、ベスト8に進出。準々決勝では中国相手に永里もゴールを奪って勝利。アテネ超えを果たした。しかし、準決勝・アメリカ戦で敗れ、ドイツとの3位決定戦も落とし、あと一歩のところでメダルを逃してしまう。

 佐々木監督は「思いのほか、永里が点を取れなかった」と振り返ったが、その事実を誰よりも強く噛みしめたのは本人だった。

「私にとっては世界の壁をいちばん強く感じた大会でした。チームとしてはステップアップしたとは思うんですけど、準決勝、3位決定戦では本当に力の差を見せつけられた。そこが自分にとって大きなショックでしたし、海外を意識するきっかけになりました」

 この時点で先輩・澤は、すでにアメリカでのプレーを経験。なでしこの司令塔・宮間あやも翌'09年にロサンゼルスへ赴いたが、日本の女子選手が海外クラブに所属するのはまだまだハードルが高かった。それでも「高いレベルでやりたい」という永里の思いは強く、国内外の遠征時の移動途中に英語の勉強を地道にコツコツ続けるなど、準備に余念がなかった。

 そんな永里の願いが叶ったのは'10年1月。ドイツ女子リーグ1部のトゥルビネ・ポツダム移籍が決まったのだ。当時、男子では長谷部誠(フランクフルト)らがドイツで活躍していたが、女子選手の挑戦はまったくの初めて。「オリジナルな生き方」を求める彼女にとっては理想的な新天地だった。