15歳で家出、ゲイバーへ
1942年、北海道釧路市で会社員の父親と家庭的な母の次男として生まれる。太平洋戦争へと突入して約1年が過ぎるころだった。
「2歳半で終戦を迎えたので、戦争の記憶はありません。子ども心に覚えているのは、貧乏だったことぐらい。なにしろ4男5女の子どもがいる大家族でしたから。父は“アメリカと徹底的に戦える男になれ、男に徹する男になれ”という願いを込めて、“徹男”と名づけたようです」
しかし、厳格な父親の教育方針とは裏腹に物心ついたときには“女の子”だった。
「野球より、お人形遊びのほうが断然好きでした。時代劇ごっこではいつも女役。母の着物を引っぱり出して口紅を塗り、姿見の前でうっとりと自分を眺めたり踊ったりしました。自分がきれいであることが何より好きでしたね」
そんな自己愛の強い性格を早くから見抜いた父は「この化け物!」と大声で怒鳴り、容赦なくゲンコツで殴った。
「典型的な明治の男でしたから、私の行動が理解できなかったんでしょうね」
小学生のころのあだ名は「なりかけ」。「おんなになりかけているから」というのが由来だった。中学生になると、今度は「おとこおんな」と呼ばれるようになったという。
「イヤだったけど気にしないようにしていたわ。言いたいやつには言わしとけばいいって。イジメられると、幼なじみだった番長に仕返ししてもらったの。彼はケンカも強くてイイ男だったわ。いま考えると情婦気取りよね」
14歳のとき、その番長が家に泊まりがけで遊びにきた夜、彼に口づけをされた。
「それからお互いの身体に触れ合ったの。お医者さんごっこの延長みたいなものだったけど、初体験の淡い思い出よ」
やがて自分の恋愛対象が男性で、「おとこおんな」であることに悩みを抱くようになる。そんなとき三島由紀夫の『禁色』を読み、“麗しのゲイボーイ”として一世を風靡していた美輪明宏の存在を知り、衝撃を受けた。
「こういう世界があるんだ!って。世の中で自分だけだと思っていたから。ああ、もう私の行く道はこれしかないわと思ったのね」
麻紀さんは15歳で高校を中退し、アルバイトで稼いだお金を元手に家出をする。東京を目指した列車の中で車掌に家出がバレて札幌で飛び降り、『ベラミ』というゲイバーで働き始めた。
「着いたその日から店に出て、お酒も飲んでショータイムでダンスも踊ったの。中学生のころから父の日本酒を飲んでいたし、漁港の船員さんたちに可愛がられて、船の中でいろんなステップを教わっていたから、マンボやジルバ、タンゴも踊れたのよ。住み込みで下働きをしながら、この世界の礼儀や接客、それに男の騙し方、悦ばせ方まで、徹底して仕込んでもらったわ」
その後、全国各地のゲイバーを転々としたのち、17歳で上京、銀座の『青江』で働くことになる。前述の吉野さんが当時の麻紀さんやゲイバーの様子を話してくれた。
「麻紀は女の子みたいで、とてもきれいだった。ゲイバーは上下関係が厳しかったけど、礼儀正しかったから、青江のママにも大事にされていたわ。そのころ、東京のゲイボーイはみんな短髪で着流し姿だったの。街角に立ってるような連中が女装していたからね」
そうした男娼への蔑称が“オカマ”という言葉だったのだとか。麻紀さんは腰まであった髪をバッサリ切った。とっさに名乗った牧田徹という名前から「マキ」と源氏名がつく。『青江』に集まる財界人らから粋な遊びや知らない世界を教わった。